それは狂気と紙一重

旭川まで連行されたナマエであったが、なぜ己が第七師団に付け狙われていたのかは結局皆目見当がつかなかった。考えれば考える程に何一つ理由が無いのだ。唯一あるとすれば金塊を狙う杉元一行に同行している事、ぐらいであるが天下の第七師団がたったそれだけの事で一々何の役にも立たないアイヌの娘を捕らえるだろうか?その答えは否のようにナマエには思われた。

旭川の本部に到着して早々、白石と別に移送されたナマエは思っていたよりも良い待遇を受けていた。拘束こそされていたもののそれは柔らかな布であって、てっきり麻縄で亀甲縛りかと戦々恐々としていたナマエにはある意味拍子抜けであった。置かれていた部屋も衛生状態の悪い牢屋などではなく家具付きで日当たりのいい部屋。囚人、というよりは客人という待遇だ。しかしながら当然の如く置かれた部屋には外側から錠がかけられ、窓からそっと外を覗けば官舎が規則正しく並び、軍人たちが歩き回っている。

(これじゃ、逃げられない……)

顔を歪めて窓から離れるナマエはしかしびく、と身体を強張らせる。扉の向こう側から明らかにこちらに向かって来る足音が聞こえたからだ。誰かは分からないが二人。どちらも男。今いる場所を考えれば当然軍人だろう。

(ご、拷問とか……!)

嫌な予感に身を震わせて慌てて辺りを見回して、置かれているソファの陰に蹲る。すぐにバレてしまう小細工だが無いよりはマシかと身を隠すナマエを他所に足音はどんどん近付いてくる。そして、遂に部屋の前で止まった。扉をノックされたがナマエは返事をしなかった。心臓が極限に高鳴って返事をするどころでは無かった。

「失礼、……ナマエ嬢?」

(……!?)

あまりにナマエが返事をしない事で焦れたのか相手は扉の鍵を開けるとナマエの返事を待たずに入室する。聞き覚えがあるような声にナマエは一瞬ソファの陰から出そうになるのを何とか耐えた。耳元で心臓の暴れる音が主張し、背筋を冷たい汗が流れる。隠れていると言ったってものの数秒で見つかってしまうのは必至だ。怖い、怖くて堪らない。脳裏を旅の仲間たちの姿が過ぎった。

「おや、ナマエ嬢がいない」

「隠れているのでしょう」

「ふむ、隠れ鬼という訳か。……随分と可愛らしい事をする」

「……違うと思いますがね」

二人の男の声は入り口から明らかにナマエのいるソファに向かって投げられていた。要は完全に居場所を悟られているのだと気付いたナマエは覚悟を決めてソファの陰から身体を出す。扉の方には入り口を塞ぐように二人の男が立っていた。一人は眼光鋭いまでも常識人、のような気がする。そしてもう一人は。

「あ、あなたは……!」

「おや、覚えていてくれたのかね?恐悦至極の限りだ」

そこにいたのはいつか小樽でナマエを助けてくれた男であった。一度見たら忘れられない風貌は間違いない。穏やかに微笑む男だったがその目に宿るぎらついた光はナマエの身を竦ませる。そして彼女にはこのような目をする男に一人だけ心当たりがあった。

「あなたが、鶴見中尉……、」

「いかにも。先日は自己紹介もせずに失礼した。ちなみに、君は気が付いていないようであったが我々はあのニシン漁場でもすれ違っていたのだよ」

奇術の種明かしでもするような得意そうな顔をする鶴見にナマエは既に及び腰である。ニシン漁場と言えば辺見和雄との一件であるが、あの時ナマエは杉元たちとは別行動で白石と共にクジラ漁に邁進していた。確かに最後は第七師団に追いかけられたがまさかそこにいた「鶴見中尉」が目の前の男だったとは。

改めて使い物にならない自分に顔を歪めるナマエの方へと迷い無く鶴見は近付く。それに気付いたナマエは慌てて後退った。気を付けないと、心を許してしまいそうになるのだ。どうしてだかこの男には縋ってしまいたくなるような奇妙な魅力があった。

「鶴見中尉。彼女が怯えています。あまり怯えさせると『奴』が面倒です」

「ああ。『彼』にもナマエ嬢の事は伝えてある。入れ違いになってしまったようだが、いずれ旭川に来るだろう」

一体誰の事を話しているのかと疑問符を散らすナマエには答えは与えられず、彼女は両手首を拘束されているのを良い事に軽々と抱き上げられて有無を言わさずソファに座らされる。呆気に取られたところを我に返り、逃げようと立ち上がろうとするナマエの肩を簡単な動作で押してその動きを押し留めた鶴見はナマエを囲うように彼女の耳許に手を突いた。暗闇を凝縮したような黒い瞳が近付いてきてナマエは知らず身を硬直させた。

「あ、あのっ、」

「やはり……」

「……?」

うっとりとしたような瞳に怯みながらも首を傾げるナマエの頬を柔らかな革手袋に包まれた手がなぞっていく。感じた事の無い雰囲気に場違いに心臓を上擦らせるナマエに気付いたのか鶴見は艶やかに微笑みながらその顔を近付ける。吐息が混じり合い、唇が触れ合いそうにすらなる距離に白い頬を染めるナマエに楽しげに笑った鶴見は彼女の耳許に低く囁いた。

「その琥珀色、欲しい……」

「っ、あ……!」

ぞくぞくとした疼きに目を見開くナマエの頬におどけたように鶴見の唇が落とされる。それすらも気付かない程にナマエはその暗闇に引き込まれていた。その深淵には何一つ、映ってはいなかった。

「月島軍曹、ナマエ嬢の拘束を外してやれ」

「……しかし、」

「構わん。どの道拘束は外さねばならん。……『彼』があと数日の内にこちらに到着するからにはな。その時になってナマエ嬢の拘束がまだ外されていなければ『あの男』、私でも抑え切れるかどうか」

肩を竦めてナマエの上から身を起こす鶴見にため息を吐いた男、月島は静かにナマエの傍に寄る。身構えるナマエに少しばかり心外そうな顔をした月島だったが何も言わずにナマエの拘束に手をかけた。

「不用意な動きをすれば、どうなるか分かっているな?」

「っ、」

「月島軍曹、怯えさせるな」

「……はあ」

武骨な硬い手がナマエの拘束を外し、一度だけ拘束の跡を撫でる。恐らくナマエが何とかして拘束を外そうとしたせいだろう。そこには擦過傷は無いにしても赤い跡がくっきりと残っていた。すかさずナマエの腕を取った鶴見の指が革手袋越しに赤く残る跡を繊細になぞる。その動きはナマエの心の奥底から形容しがたい気持ちを湧き上がらせる。例えるならば全てをこの男に委ねてしまいたいというような圧倒的な服従感。鶴見も彼女が抵抗する気が無いと分かって酷く満足そうに口端を持ち上げる。それから鶴見は彼女の前に跪くと宝物か何かのように恭しくその手首を掲げ、ナマエにとっては信じられない事に、その拘束の跡に舌を這わせた。

「ひっ!?」

鶴見の突然の奇行に目を白黒させて勢いよく手を引こうとするナマエであったがそれよりも早く月島の武骨な手がナマエの身体ごと彼女を移動させ、鶴見から遠ざけた。

「鶴見中尉」

見様によっては鶴見を咎めるように睨む月島に、鶴見はその暗い底無し沼のような瞳を向ける。数秒間睨み合うようにお互いを見ていた二人であったが鶴見の方からその視線の糸は断ち切られた。まるで何事も無かったかのように立ち上がった鶴見にナマエは安堵したように息を吐いてそれから月島を見上げる。

「あ、あの、ありがとうございます……」

「いや、あの人がすまない」

疲れたような顔でナマエが座っているソファから離れて行く鶴見を目で追う月島にナマエは彼に対する認識を「怖い軍人」から「苦労人の軍人」に改めた。しかし月島は彼女の心中には気付くはずもなく、鶴見の背に向かって声をかける。

「ところで鶴見中尉。なんのためにわざわざ全ての予定を踏み倒してまで旭川に来たのかお忘れですか」

「おお、そうであった。ナマエ嬢、君は自分がどうして『このような待遇』を受けているのか、疑問に思っているのではないかね?」

「え……?そ、それは、」

漸くたどり着いた本題にナマエが食いついた事を察したのか鶴見は笑みを深めてナマエを見つめた。彼女の琥珀色の瞳が恐怖と好奇心に揺れるのを。

「簡単な事だ。小樽で初めて出会った時から、私は君を忘れられなかったのだ。……だから、探させた」

「は?え?」

予想外の言葉に目を瞬かせるナマエの隣に腰を下ろした鶴見はそっと彼女の無造作に流された髪に触れた。音も無く流れる浅葱鼠色のそれをゆっくりと梳いて感触を楽しんだ鶴見は満足そうに、尚も怯えたように身を竦ませるナマエの耳許で何事かを囁いた。それは月島には全く聞こえなかったが、恐らくその手の言葉なのだろう。ナマエが目を見開いて、顔を赤らめるような。

じわじわと赤く染まるナマエの頬に鶴見は艶やかに微笑む。彼は間違いなく男なのに、ナマエにはなぜかその笑みが今までに見たどんな女の笑みよりも「色っぽく」見えた。鶴見の顔が徐々に近付いてきて、深い色の瞳が細められる。熱い頬が革手袋越しに撫でられて、ナマエは本当に縫い留められたように動けなくなった。

「ああ……、やはり良いぞ、ナマエ嬢の白い肌には赤が実によく映える……」

「ひっ、」

それでも野生の勘が働いたとでも言うのだろうか。恍惚に蕩けたような表情をする鶴見に、咄嗟にナマエは仰け反って鶴見から遠ざかり、二人の内「マシな方」だと認識した男の背に隠れる。すなわち月島の背に。月島も流石にナマエに同情したのか彼女を庇うようにその背に手を添える。ナマエに逃げられた鶴見は己の手の内を気の無い表情で見てからナマエの怯える表情を見付けて更に笑みを深める。そしてその顔にナマエは更に怯える。

「鶴見中尉、いい加減にしないと『あの男』は本気であなたを殺しにかかりますよ。こんなところを見られてご覧なさい。『アイツ』を抑えるのは自分なのですから。大体、人質と言えど幼気な少女を揶揄うのは悪趣味です」

「仕方ないだろう。全てにおいて魅力的……。俺は美しいものが好きだからな。この言葉も、強ち嘘とは言い切れん」

「おふざけもその辺りにしてください。壁に耳あり障子に目あり。いつ『アイツ』が来るとも知れないのですから」

「揶揄われている」と聞いてほっとして、漸く肩を竦める月島の背中から顔を出したナマエはぞくりと背筋を粟立たせる。全て冗談のように聞こえる言葉なのに唯一つ、鶴見の目だけは爛々と狂気染みて輝いて、ナマエから一寸たりとも視線を外さなかったのだから。

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