三分間クッキング

ナマエとエコリアチの関係が微妙な物となってからもナマエに対する待遇は変わらなかった。それはナマエにとっては素直に有難い物ではあったが、それを素直に表現する事は出来なかった。

死んでしまったと思っていた兄が実は生きていた事でさえナマエを混乱させたのに、あまつさえその兄が自身と敵対していたなんて。混乱が過ぎて頭が理解する事を拒否していた。

結局兄のエコリアチとは表面上は言葉を交わすまでの関係には戻ったけれど、しかしそれは昔のように何も言わなくてもただ一緒にいるだけで心が温かくなるような関係ではなかった。

唯一の心の支えも失って、次第に沈み込んで食事もまともにとらなくなったナマエをエコリアチは酷く心配して中々彼女の傍を離れようとしなかった。

「なあ、ナマエ?大丈夫か?」

「……何もないから、大丈夫」

「だったら笑ってくれよ。……俺は、ナマエの笑った顔が見たいんだ」

「…………大丈夫だから。一人に、してほしい」

言葉とは裏腹に暗い顔のナマエにエコリアチは顔を曇らせる。ナマエもナマエでそんな兄に何を言って良いか分からず、唇を固く引き結ぶから、結局それ以上二人の会話が交わされる事は無く、エコリアチは月島に引き摺られて名残惜しそうに仕事に戻って行った。それを横目で盗み見てからナマエはふ、と息を吐いた。

兄の事が、嫌いになった訳ではなかった。生きていて良かったとも思っている。でも手放しでは喜べなかった。それは兄が金塊とアシパの事を全て知っていて尚、第七師団に組する事を選択したからだ。つまり妹である自分とは敵対する組織に。

(兄さんと、全てを捨てて……、)

目を細めて鶴見に言われた可能性を思い出す。それは酷く簡単なようで、酷く重い決断を彼女に迫るものであった。

(簡単な事だ。……杉元の手許にある刺青人皮、それを君が写し取って来るだけで良い。そうすれば、君の兄君を第七師団から「解放」しよう)

微笑む鶴見は更にナマエに囁いた。「肉親を大切に想う気持ちを誰が責めることが出来ようか」と。まるで彼らに代わって鶴見がナマエの事を赦さんと言わんばかりに。そしてナマエは僅かでも、ほんの僅かでもその赦しに心を揺らした己を恥じた。親友のアシパや杉元、他にも沢山の同行者を裏切ってまで、兄を選ぼうとした己を。

(……助けて)

それは捕らわれて初めてナマエが感じた感情だった。捕まってしまった事に負い目を感じて逃げ出す機会を窺っていた。どうにかして白石と共にアシパたちの許に戻ろうと思っていた。でも今初めて、彼らに助けてほしいと思った。無理矢理、ナマエの意思とは関係なく、自身を兄の許から遠ざけて欲しかった。そうでなければナマエは自分が迷ってしまうような気がしてならなかった。

アシリパと兄を天秤にかける事など、出来はしないと分かっていた。そしてその迷いが彼らの枷となる事も。

(早く、助けて。決心がつかない内に……)

考えれば考える程に混迷を極める思考が煩わしくて、ナマエは目をぎゅう、と瞑った。それから同じように捕まった白石の事を考える。兄に話を聞いた時は適当な濁され方をしたけれど無事ではあるようだった。その事に安堵して、すぐにまた思考は鶴見の「提案」へと戻ってきてしまう。

可能性を捨てきれないのだ。もしかしたら兄は第七師団に騙されていて、何かあった時の人質として飼われているのではないかと。もしここで自分が鶴見の「提案」を蹴ったら、兄に危害が及ぶのではないかと。彼はナマエにとって唯一の家族であった。二度とその兄を、喪いたくはなかった。

「…………にいさん、」

ぽつり、と零れた言葉はナマエ自身の心を揺さぶった。心を揺さぶって、感情を震わせて、そしてその均衡を破った。泣いても仕方ないと分かっているのに涙は止まらなくて、唇を噛み締めるナマエは備え付けられたソファに身を預ける。身体を丸めるようにして寝転んで、ナマエは泣きながら暫しの眠りに就いた。そうでもしなければ、苦しくて耐えられないと思った。

***

次に彼女が目を覚ました時、懐かしい黒灰色の瞳が心配そうに自分の顔を覗き込んでいる事に気付いたけれど、ナマエはすぐには覚醒することが出来なかった。また、自分は寂しくて泣いてしまったのかと思ったのだ。辺りはすっかりと暗くなっていて、存外長い時間彼女が眠りに就いていた事を示していた。

「ナマエ、起きたか?」

そっと、エコリアチの親指がナマエの頬に残る涙の跡を辿っていくのを感じながら、彼女は小さく頷く。場所が場所でなければ、それはコタンでの兄との触れ合いと何一つ変わらなかった。

「兄さん……。仕事はもう良いの?」

「ああ、今日はもう終わり。なあ、腹減ってないか?もうずっと、まともに食ってないだろう」

優しい声が耳に落ちて、ナマエは素直に頷く事が出来た。実際空腹だった。こんな時でもきゅうきゅうと鳴る腹は正直でナマエとエコリアチは顔を見合わせて笑った。

「何が食べたい?ナマエのためなら何だって作るよ」

優しく笑う兄にナマエも小さく微笑んだ。食べたい物など、一つだった。

「……兄さんと、チタタしてみたい」

それは小さな冗談のつもりだった。ナマエは兄とチタタをした事が無かった。共に飯を食った事も無かった。だから密かに憧れがあったのだ。家族で食事をする事に。

「チタタだな!分かった!待ってろ!!」

「え、あ、兄さん、冗談……、行っちゃった……」

これが第一回第七師団チタタ大会の始まりだとはナマエは露知らず、ただ走り去っていく兄の背中を眺めるだけであった。

―――
――

連れて来られた会場には何人かいた。鶴見と月島。あとエコリアチ。それから。

「一体何なのだこれは?」

知らない男。

「あ、あの、兄さん……、」

「ナマエ!やっぱりチタタは大勢で作るもんだもんな!ていうか顔色が悪いな……、お前は座ってろ。無理するなよ?……さあ!という訳でチタタしますから、準備お願いします!」

皆何も説明されずに集められたようだ。鶴見や月島は肩を竦め合っている。

「ふむ、チタタプとは?アイヌの料理かね?」

感情の読めない笑みを浮かべながらエコリアチに問う鶴見に月島も頷く。もう一人、ナマエの知らない男は苛々とした様子でエコリアチの事を睨んでいた。

「ハイ!良い質問です、鶴見中尉!チタタとはズバリ、獣肉を刃物で叩いてひき肉にしたアイヌの料理です!」

「それで?俺たちをここに集めた理由は?まさか異文化交流会でもするつもりか?」

「当たらずも遠からず、月島軍曹!チタタとはアイヌ語で『我々が刻むもの』という意味!つまり複数人いなきゃチタタではない!」

満足げに腰の銃剣を擦ったエコリアチだったが、ばし、と大きな音がしてその音に驚いたナマエは身を竦める。音のした方には件の知らない男がいた。

「……それで。そんな下らない事のために私や鶴見中尉を呼んだのか?」

眼光鋭いその男はエコリアチを鋭く睨む。その視線の強さはナマエまでも縫い留めそうだった。

「下らないだと?ナマエの細やかな願いのどこが下らないって言うんですか、鯉登少尉?」

「こんな小娘の願いなど聞くに値しないと言っているのだ!」

「…………ふうん。せっかく鶴見中尉とお近付きになれる機会を作ったのになあ」

「ぐ……!」

「せっかく鶴見中尉も少し乗り気なのになあ。勿体無いなあ、鯉登少尉は不参加かあ」

「くっ!」

どちらかと言うとエコリアチの方が少尉と呼ばれる男より優勢のようだ。わざとらしく肩を竦め、鯉登と呼ばれた男を煽るような表情をする。エコリアチのあまりの大人気なさにナマエの眉が寄り、険しい表情を作る。ナマエのその様子を見かねた鶴見はナマエに耳打ちするように顔を近付けた。

「彼は鯉登少尉。エコリアチとは、何と言うかまあ、反りが合わない」

「…………みたいですね。なんか、兄がすみません……」

「いや、こちらこそ、というやつだな」

互いに頭を下げ合う鶴見とナマエだったが、鯉登とエコリアチの睨み合いは依然続いている。いい加減ナマエが仲裁に入ろうとした時だった。

「……鯉登少尉!女性の願いは聞くものだぞ!」

「は!承知しました!」

「鶴の一声」とでも言うのだろうか。鶴見の一声に鯉登は直立不動の姿勢で返答した。その変わり身の早さときたら、当事者のエコリアチでさえ顔を引き攣らせたくらいだ。

「……じゃ、気を取り直してチタタしましょう!簡単ですよ。イタタニの上で肉を叩くだけ!見本を見せるからお手本通りにやってください」

どこから取り出したのか皮を剥いだリスを取り出したエコリアチはマキリを持ち、肉を叩いていく。興味深そうにそれを眺める鶴見と月島に、やや腹立たしそうに眺める鯉登、そして身の置き所なく心細い顔で兄の傍に身を置くナマエ。五者五様の様相を見せる面々だったが、エコリアチが達成感溢れる顔でマキリを鶴見に渡した事でその視線は鶴見へと向かう。

「私の番かね?」

「ええ、『チタタ』って言いながら叩いてください。目安は一人頭、三分ぐらいか?」

「ふむ、チタタプ、チタタプ……」

鶴見の手が繊細に肉を叩いていくのを見ながらナマエはこのよく分からない状況に内心困り果てていた。どうして自分は敵対勢力とチタタしているのだろう、とか。大体自分の兄は恐らく上官にめちゃくちゃ指示しているけど大丈夫なのだろうか、とか。なんかちょっと鶴見が楽しそうに見えるのは気のせいなのだろうか、とか。とにかく色々な事について。

そうこうしている間に鶴見の番が終わり、月島がやや気恥ずかしそうにチタタする番も終わり(「もっと自分を曝け出してください、月島軍曹!」)、マキリは鯉登に回って来る。鯉登は回ってきたマキリを嫌そうに握ると無言で肉を刻み始めるため、エコリアチの視線がまた鋭くなる。

「ちょっと鯉登少尉?俺、言いましたよね?『チタタ』って言いながら叩けって」

「そんな事知るか」

「全く……。ナマエからも何か言ってやってくれ」

「ええ!?」

いきなり話を振られて、狼狽えるナマエだったが確かにチタタはアイヌである自分にとっては魂のようなもの。その意味も込めて鯉登をじっと、見つめる。……じっと。

「……くっ!そんな目で私を見るんじゃない!」

「えっ!」

「クソ!チタタプチタタプ!これで良いのだろう!」

あまりの迫力に気圧されてこくこくと頷くナマエに鯉登はそっぽを向くもその耳は赤い。案外良い人なのかも、と思ってナマエは首を振った。絆されている。再度気を引き締めるナマエの目の前にマキリが突き付けられる。明らかに三分経ってはいないが鯉登はナマエに順番を譲るようだ。

「き、貴様の番だぞ!」

「あ、ありがとうございます……」

時間短縮の鯉登にやや不満げなエコリアチであったが、ナマエが何も言わずにマキリを受け取ったためその顔を緩めて彼女を見つめる。

そしてチタタ チタタと、とてとてと刃物を動かすナマエの番も滞りなく終わり、いよいよ実食である。エコリアチがこれまたどこから出したのか鍋と大量の野菜を準備していた。

「今日はオハウで食いましょう!オハウっていうのは汁物の事です。和人で言うところのつみれ汁ってやつですか?」

エコリアチが手際よく鍋を用意するため、すぐに食欲をそそる匂いが辺りを漂う。ここのところ食事も喉を通らなかったナマエの口の中にも唾液が溜まる。兄の作ってくれた食事の味を想像すると自然とそわそわとする身体をナマエは抑える事が出来ない。

「おい、そわそわとするんじゃない。……みっともないぞ」

はあ、と息を吐かれて刺々しい言葉をかけられ、隣を見れば先ほどの男、鯉登が苦々しそうに眉を寄せていた。その顔にナマエがはっ、とばつの悪い顔をすると鯉登もつられて似たような顔をする。

「ご、ごめんなさい……」

「ふ、ふん。分かれば良い。女は淑やかにしておけ」

「はあ……、」

ちら、と見た鯉登の耳はやはり赤く、ナマエは俯いてそれからまた鯉登の方を見る。それから少し迷って口を開いた。

「あの、」

「……っ、何だ?」

「……えっと、……、何でもないです」

ナマエの声に肩を揺らした鯉登に怯んだのか、彼女は慌てて首を振って鯉登から視線を外して俯いた。それを見た鯉登が更に苛立たしげに顔を顰めたのを見てナマエも更にしどろもどろになる。

「歯切れが悪い。何かあるなら言え」

「……え、えっと、い、色々ごめんなさい。兄が迷惑をかけて……」

眉を下げるナマエに鯉登は咳払いをして顔を顰める。

「……べ、別に!私も暇ではないが、まあ、鶴見中尉と同席できるなら安いものだ」

「……、そ、そうですか」

恍惚とした表情で月島と何事か話している鶴見を見つめる鯉登にナマエは引き攣った表情を見せる。しかし鯉登のその顔がナマエ自身に向いた事で身を硬くする。

「な、んですか……?」

「……その、貴様、」

「はい、」

「貴様、名は……」

「はい?」

「だ、だから!名は何という!?」

鼓膜を刺すような大きな声にびく、と身体を揺らすナマエに鯉登ははっ、と目を見開くと「すまん」と小さく呟く。鯉登の謝罪にややびくつきながらもそれを受け入れるナマエは小首を傾げた。

「なまえ、ですか……?」

「私は鯉登音之進という。貴様は?」

「あの、ナマエ、です……」

ナマエが恐る恐る呟けば鯉登は口の中で「ナマエ、ナマエ、」と何度か呟いて頷いた。

「ナマエか。覚えた」

「あ、ありがとう、ございます……?えっと、鯉登ニパ?」

己の名前を声に出された事に鯉登は満足げに微笑むと目の前のテーブルに肘を突いてエコリアチを見た。ナマエもそれに倣って自身の兄を見る。エコリアチは見事にオハウを作ってそれをよそっているところだった。その顔はコタンにいた時には見た事のない顔だとナマエは思った。コタンにいる兄は酷く大人びていたけれど、今の顔はまるで少年のようだと。

「それよりなんだ。オハウというのは美味いのか?」

不意に聞こえた鯉登の声に意識を引き戻されたナマエは鯉登の方に顔を向ける。鯉登は一見興味の無さそうな顔でナマエを見ていたが、その反面彼女の顔から視線を外そうとはしない。それが彼のアイヌへの興味のように思えてナマエは嬉しくなって微笑んだ。

「はい!オハウは和人の人でも食べやすいし、特に兄は昔から料理が上手だったって聞いてます。だから凄く美味しいと思います!」

「ふん……、どうだかな。私も鶴見中尉もその辺の人間よりは舌が肥えている。そう簡単に満足できるとは思えんが……」

尚も憎まれ口を叩く鯉登にナマエは苦笑する。先ほどの鶴見の言からも窺えたが、鯉登は本当にエコリアチの事が気に喰わないのだと分かって。兄のエコリアチは昔から人に好かれはすれど嫌われる事はほとんどなかったから、可笑しな言い方ではあったがナマエは素直に嬉しかった。兄の人間らしいところが見られた気がして。

「おい、何を笑って……」

「ほら、ナマエ。チタタ鍋だ。鯉登少尉は……、まあ好きによそってください。結構上手く出来たんで」

鯉登の言葉を遮るようにエコリアチはナマエにオハウのたっぷり入った椀を渡す。なんだかんだ鯉登の椀を渡してやる所も含めて、ずっと頼もしいと思っていた兄の子どものような一面にナマエはくすくすと笑いながらその椀を両手で受け取った。口をつけて汁を啜ると、じんわりと身体が温まる。

「おいしい……」

「良かった。沢山食って良く寝て、早く元気になれよ」

「…………、うん。ありがとう、兄さん」

ナマエは久しぶりに何の衒いも無く兄の顔を見て、微笑んだと思った。いまだ敵中にいるのは分かっていた事だったが、美味い食事のおかげでナマエは僅かに安堵した。兄が生きていて、傍にいてくれる事を。

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