しゃくり上げるナマエの背を緩々と撫でる鶴見はソファの肘掛けに僅かに身体を凭せ掛け、優しげな瞳で彼女を見つめる。
「……っ、」
「擦ると腫れてしまう。これを使いなさい」
「いや、……」
「意地を張るんじゃない」
首を振るナマエの手に無理矢理自らの手布を握らせた鶴見は再び彼女の呼吸を落ち着かせるようにその背中に手を添える。
「君は兄君にとても愛されているのだな」
「……、っ知ってる」
「エコリアチは君の話を沢山してくれた。美しい思い出の数々を。別たれて育てられたとは思えないくらい、沢山の思い出だ」
「っ……、」
全てを赦すようなその声音に感情を揺さぶられてナマエは再びその眦に涙を浮かべる。静かに、音も無く涙を零すナマエの雫の道筋を鶴見の指が繊細に辿った。
「彼はとても、君の事を愛している。家族の絆とはなんと美しい物かと、エコリアチの話を聞いてそう思った」
「…………兄は、」
「『何よりも、君の事が大切だ』、そう何度も何度も言っていた」
「……っ、だったら、なんでっ……!あなたたちの、せいなの?だったら、兄をかえして……、」
琥珀色の瞳が目蓋の下に隠れる度に玉のように零れ落ちる雫をもう一度拭った鶴見はそっとナマエを引き寄せる。男女の抱擁のようなその距離にナマエが身を硬くするのをそのままに、鶴見は彼女の耳許に唇を寄せた。
「それは出来ない相談だ。だが、君が私たちのために『ある事』をやってくれれば、考えても良い」
「……兄、と?二人で、暮らせる?」
「うむ。……もし、君が我々の言う事をやってのけてくれさえすれば、な。君は君の兄君と全てを捨てて新しい生活を始めたくはないかね?」
甘く響く鶴見の声にナマエの思考力は少しずつ奪われていく。それは彼女が弱っていたせいでもあるし、鶴見のカリスマ性が成せる技でもある。魅入られたように鶴見を見つめるナマエの瞳には、もう、彼の顔しか映っていなかった。
「……どうしたら、兄を、かえしてくれる?」
「簡単な事。……耳を貸しなさい」
目を伏せたナマエは一度だけ、親友の顔を思い出した。しかし遠く離れたところにいるアシリパの笑顔は、ナマエを止めるものにはならなかった。
静かに鶴見に耳を貸すナマエに、鶴見は笑った。新たな手駒の誕生を祝って。
***
「……っ!」
背筋に嫌なものが走ってアシリパは辺りを見回したが、当然そこには何もいない。顔を歪めてナマエの事を思い描く。何となく、彼女に害意が迫っているような、そんな気がしたのだ。
「アシリパさん?どうした?」
アシリパの異変に気付いた杉元に顔を覗き込まれて彼女ははっ、と集中を取り戻す。今は準備の時だと、一行は宿に逗留して好機を窺っていた。その間アシリパは杉元と共に過ごしていた訳だが、彼女はどうしてもナマエの事で悪い方向に考える事を止められなかった。
ナマエが何か酷い目に遭っている事をではない。勿論それも心配であったが、何より彼女の兄、エコリアチに関する事を、アシリパは心配していた。
尾形の言う事が真実であるとするならば、エコリアチは第七師団に身を寄せている事になる。つまり彼の真意はどうあれ、所属としてはナマエとエコリアチは敵対している事となる。もしナマエがそれを知ってしまったら。それがアシリパには恐ろしかった。
あれだけ仲の良かった兄妹が敵対しなければいけないなんて。アシリパはぎゅう、と目を閉じた。怪訝な顔の杉元がアシリパを見ていて、彼女は全てを打ち明けたくなった。
「……杉元なら、どうする?」
「え?」
「ずっと死んでしまったと思っていた人が実は生きていて、しかも敵になってしまっていたら」
「……、のっぺらぼうの事か?」
気遣わしげにアシリパの顔を覗き込む杉元に彼女は首を振るのが精一杯だった。可能性を口にするのがただ、怖かった。
「……あ、ああ!そう、だ。私には分からない、どうしたら良いのか」
それでも本当の事を口にする事は出来なくて、アシリパはただ項垂れた。今はただ、白石とナマエを救って、それからエコリアチの事を話すのだと、それからでも遅くないだろう、と彼女は自分自身を慰めるしか出来なかった。
コメント