宴の喧騒が遠く離れて、火照った身体が風に冷やされていく。誰にも何も言わずに来たけれど、気付く者はいないだろう。ナマエはそっと息を吐いてそれから地面を見つめた。宴の雰囲気がお互いの心を緩めたのかアシリパとは何となく打ち解けていた、とナマエは思っている。まだ詳しい事を打ち明けた訳ではなかったけれど、それでもお互いに以前のような蟠りを感じる訳でも無く、かと言って言葉を交わせる程でも無いという状態。それでもそれは以前のナマエの心情からしてみれば抜群の進歩であると彼女は思っていた。
だからその事について焦る気持ちは不思議と無かった。根拠は無かったがナマエには確信があった。アシリパなら、今、自分がここにいる事に気付いてくれるという確信が。
聞き慣れた足音が背後からこちらに近付いてくるのを聞いて、ナマエは振り返って、そして微笑んだ。そこには宴の興奮からだろうか、僅かに頬を上気させ、足取りの軽いアシリパが立っていた。
「ナマエ、ここにいたのか」
「アシリパ、来てくれたんだ」
お互いに言葉少なではあったが、確りとその目を見て会話できる事にナマエは感情が融解しそうな程の安堵を感じていた。以前は当たり前であった筈のそれを永らく忘れていた事でナマエはその大切さを身を持って感じていた。
「ナマエに話したい事があった」
アシリパの意を決したような硬い声にナマエも頷く。「私も」という彼女の言葉にアシリパも頷いた。そしてごく自然な流れで二人の少女は静かに見つめ合う。それはお互いの言いたい事を透かし見るような、存在を確認するような視線の交わりであった。ナマエはアシリパの星散る青い瞳を見つめ、アシリパはナマエの琥珀色に輝く瞳を見た。そして。
「ふふ……」
示し合わせたかのように二人は揃って微笑んだ。まるで血を分けた姉妹のように二人は手を取り合うと傍らの岩陰に腰かける。僅かに触れ合ったところから伝わるお互いの温もりに二人は微笑んで空を見上げた。満天の星空が二人を優しく包む。
「アロ・ヌマ・ノチウだね」
「ああ。久しぶりに星を見上げたよ」
宵の明星が瞬くように輝くのをナマエは目を細めて見た。それから息を吐くように笑ってからアシリパに向き直る。アシリパもナマエの顔を見た。
「あのね、アシリパ。もう言ったけど、兄さんね生きてたんだ」
「ああ、聞いた。本当に良かったと思ってる」
訥々と言葉を紡ぐナマエを急かす事も遮る事も無く、アシリパは彼女の話に耳を傾ける。
「それでね、旭川にいた時に言われたんだ。『刺青の写しを持って来れば兄さんを解放する』って」
「……それは、」
アシリパの反応に慄くように俯くナマエであったが、膝の上で握り締めた手から力を抜いてゆっくりと顔を上げた。それからガラス玉のように透明な瞳でアシリパを見つめる。
「何度も思ったよ。『刺青さえあれば』って。結果的に私は何も出来なかったけど、その可能性はあった。だって、兄さんと家族になりたいと思うから。……でも、やっぱりそのためにアシリパを裏切る事は出来ないや」
憑き物の落ちたような晴れ晴れとした表情のナマエは、驚いたように目を見開くアシリパの顔を見て軽やかに笑った。そして未だに言葉を継ぐことの出来ないアシリパの柔らかな頬に手を添える。
「兄さんも助けたいし、アシリパとも一緒にいたい。だから私は金塊を探しながら兄さんを助ける方法を探す。……ごめんなさい。口ではあなたの親友だと言いながら、私はあなたを裏切ろうとした。……もし、あなたが私をもう、信用できないって思うなら、」
柔らかく微笑んだナマエにアシリパははっと我を取り戻して勢い良く首を振る。
「思わない!絶対に辿り着こう!金塊にも、エコリアチにも、絶対!」
「良かった……、アシリパがそう言ってくれるだけで、大丈夫だって思える……」
安堵したように微笑んだナマエはそれからアシリパの頬をゆっくりと親指でなぞった。まるで見えない涙の軌跡を辿るようなその動きにアシリパは感情を震わされるような気になって唇を噛み締める。
「ごめん……ナマエ……」
それだけしか言えなくてナマエが僅かに首を傾げた空気を感じて、アシリパは彼女の身体を無理矢理に引っ張って抱き寄せる。駄々を捏ねる子どものように。
「私は本当は知っていた。いや、確証は無かったけれど知っていた。エコリアチが生きているんじゃないかって。それでも言えなかった。怖かったんだ。ナマエが傷付いてしまうかもしれないと言い訳して、私が傷付くのが怖かった。三人で過ごしたあの日々が無かった事になるのが怖かったんだ」
「アシリパ……」
「怖かった、ナマエが私ではなくエコリアチを選ぶのが。私の綺麗な思い出が、壊れてしまうのが……堪らなく怖かった……!」
震える声にナマエはアシリパの身体を抱き返す。彼女の滑らかな髪を撫でて、それからゆっくりと口を開いた。
「アシリパがそう言ってくれて嬉しい。私も『あの頃』の思い出が大切。だから私はどちらも選びたいって思う。アシリパも兄さんも、私には必要だから。……欲張りかな?」
「ナマエが欲張りなら、私だってそうだ……」
くすくすと笑ったナマエはおずおずと彼女の胸から顔を上げたアシリパの顔を覗き込む。アシリパの両の手を握ってそして額合わせに顔を近付けた。それは幼い頃から彼女らが重ねてきた親愛の証。
「私はアシリパが大好き。大切で、一番の友達って思う」
「……私もだ。ナマエの事を無二の親友と思う」
声も立てずに笑い合った二人に柔らかく吹いた夜風がさらさらと木の葉を揺らし、星を瞬かせる。寒さの底を抜けたとはいえ未だ寒い屋外であったけれど、ナマエの感情の仕舞ってある場所は不思議と温かくて、彼女は目を閉じて、その温もりを抱くように唇を緩めた。
***
宴の席に戻ろうと誘うアシリパに、もう少し風に当たりたいからと適当な言い訳をして尚も岩陰に腰を落としていたナマエであったが徐に視線をずらすと口を開く。
「尾形、いるんでしょう」
その声にため息を吐くような音がして、それからゆっくりと尾形の陰が現れる。尾形はもの言いたげな顔でナマエの姿を一瞥すると、当然のように彼女の隣に腰を下ろす。常よりも近いその触れ合いに、アシリパに感じた感情とはまた別のものを感じてナマエは僅かに喉を上下させた。
「……一件落着、か」
「聞いてたの?盗み聞きは……」
「聞きたくて聞いたわけじゃねえよ。お前に用があって捜してたらそっちが勝手に始めたんだろうが」
咎めるように唇を尖らせるナマエに心外だとでも言うように鼻を鳴らす尾形の言葉に彼女はそれまでの表情を打ち消して不思議そうな顔をする。
「……用、って?」
「……返すのを忘れていたからな」
ぐい、と押し付けられたのは彼女のマキリであった。ほとんど無理矢理に、ナマエの受け入れ態勢も整わない内にその小さな手に押し付けられたマキリに彼女は目を丸くさせる。
「あ……、尾形が持ってたんだ……」
「確かに返したからな」
震える手でそのメノコマキリをなぞるナマエのぼんやりとした表情に、尾形は居心地の悪さを押し隠すように辺りに視線をやる。本当はナマエの肩が震えている事も、彼女が込み上げるものを呑み込むように奥歯を噛み締めている事も気付いていたけれど、尾形は何も言わなかった。或いは何も言えなかった。
「これ……、兄さんに作ってもらったんだ」
突然転がったナマエの声があまりに空気に馴染んでしまっていて、尾形は咄嗟に言葉を返す事が出来なかった。それでも彼女は最初から返答など期待していなかったのか、ナマエは言葉を継ぐ。
「私がコタンの薬師になろうって決めた時、兄さんが作ってくれたのがこのメノコマキリだった。薬師にはマキリが必要だろうって。形見だと思ってたから、失くした時は悲しかった。でもね、兄さん、生きてたっ……」
マキリを握るナマエの小さな手に、その瞳から零れる雫が落ちる。縋るようにマキリを握り締めたナマエにかける言葉を探して、尾形は自分が何の言葉も持ち合わせていない事に気付いた。
「どうしよう……、うれしいのに、なみだっ、とまんないや……っ」
零れる大粒の涙を拭うナマエを見つめて、ただ尾形は逡巡してそれから彼女の頭を引き寄せて抱いた。少女特有の少し高めの体温が尾形の冷えた身体を温める。ナマエは驚いたように身を硬くしたけれど、尾形がゆっくりと彼女の背に手を置けばそろそろと肩から力を抜く。
「どうせ誰も聞いちゃいねえさ」
尾形が口に出来たのはせいぜいそれだけで、あとは静かに涙を零し始めたナマエが子どものようにわあわあと泣く声だけが静かな空間に響いて消えた。背後の岩に体重を預ければ必然的に見上げる形になる星空は優しい星明りを湛えて尾形を、二人を見守っている。
その満天の星空が一瞬戦場で見たそれと重なって、尾形はより一層腕の中の温もりを強く抱く。忘れたい訳でも、忘れられる訳も無いと思っていたが、記憶の奥底に残る『あの顔』が、少しばかり苦みとなって喉の奥から迫り上がってくる事が今だけは、煩わしかった。
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