君が遠くて

何も語らず何も語られない。それがこんなにも息苦しく気まずいものであるという事をアシパは知らなかった。アシパはナマエと幼い頃から共に過ごしていて、彼女自身ナマエの事を姉のように慕っていた。ナマエになら嬉しい事も悲しい事も何だって打ち明ける事が出来たし、それはナマエも同じなのだと思っていた。

それなのに、今は違うと確信を持って言う事が出来る。

ナマエは自分に隠し事がある、アシパは気付いていた。アシパがナマエに隠し事があるように。

釧路に向かう途中、尾形と二人きりで辺りの見回りに行ってからナマエの様子は目に見えておかしくなった。口数も少なく、塞ぎ込んでいる。最初は死別したと思っていた兄が生きていた事に動揺しているのだと思っていた。そのせいでアシパは彼女がナマエの兄の事に勘付いていて黙っていた事に対する弁明の機会を逸したのだから。

しかし今、アシパは思う。ナマエの明らかな動揺はそれだけが原因ではないと。ナマエ自身はきっと取り繕おうとしているのだろう、彼女は不自然なまでに明るくアシパを含めた仲間たちを励ました。しかし不意に訪れる沈黙にナマエが見せるどこか狂気を秘めたような思い詰めた目がアシパは怖かった。あれだけ無二の親友であると思っていたナマエが酷く遠く感じた。

そっと、ナマエの横顔を盗み見たアシパは陰鬱な気持ちに視線を伏せる。ナマエは感情の無い虚ろな瞳で膝を抱えて野営のために尾形が起こした火をぼんやりとその目に映していた。生気の感じられないその表情は何を考えているのか分からない。何かあるのなら話して欲しいと思うのに、アシパは何も言えず、ナマエもまた何も言わなかった。

「……水を汲んでくる」

不意に暗闇の向こう側から聞こえるような声が聞こえた事に、アシパは肩を揺らして反応を示す。ナマエの声ではなかった。その声の主は。

「尾形……」

その昏い目にはいつまでも慣れなかった。いつぼんやりしていたのか判別できなかったが、いつの間にか三八式歩兵銃を担いだ尾形がアシパの目の前に立っていた。

「川はあっちの方にあったな?」

確認するようにアシパの背後を指差した尾形に彼女は頷いた。野営の前に少しばかり周囲を歩き回った時に見つけていた川の事だ。アシパの同意を確認して一人で川辺へと向かう尾形に彼女ははっと思い立った。

「尾形、待て!一人は危険だ、私も行く」

立ち上がって足を止めない尾形の背を追いかける。振り返る事は出来なかった。ナマエがどんな顔をしているのか知るのが怖くて。

***

予想通り、川辺に着いた時尾形は水も汲まないで、ただ振り返ってアシパを見た。見定められるようなその視線は居心地が悪くともすれば視線を落としそうになるのを堪えながら、アシパは尾形を見つめ上げた。

「……ナマエに、何を言った」

長ったらしい前置きは必要ないと思ったし、尾形はきっと最初からアシパがこのために彼に着いてきたことを知っているのだろうと彼女は確信していた。案の定尾形はアシパの言いたい事をすぐに理解したようだった。皮肉げに笑うその顔には弱者を甚振るような酷薄さが見え隠れしていた。

「何も言われてねえのか?『親友』なのに?」

「っ……、そうだ。親友なのに、何も言われてない。だから知りたい!ナマエが何に悩んでいるのか。何に苦しんでいるのか。ナマエの事なら何だって知りたい!」

アシパの叫びにも似た告白にも尾形は表情を動かさない。ただ、少し考えるように視線をアシパから外してそれから更に鋭く研ぎ澄ましたそれを彼女に向けた。

「……アイツがお前を裏切ろうとしていても?」

「……え?」

静かな夜の空気が一瞬不安定に揺らいだ気がしてアシパは蹌踉めくように一歩後退った。それは全く考えもしなかった可能性で、ナマエという少女から一番かけ離れた印象のように思えた。

裏切り、ナマエが、誰を、どうして?

断片的な思念がアシパの脳裏を過るも答えは出なかった。絶句するアシパに尾形は暗闇を煮詰めたような瞳で狡猾そうに笑う。

「十分用心する事だ。……近い内、アイツは刺青に手を出す可能性がある。ま、要はお前たちがアイツが付け入る隙を見せないようにすれば良い。そうすりゃお互いに嫌な思いをしなくてすむ」

そうだろう?

随分と楽しそうに笑う尾形にアシパは顔を歪める。今のアシパには尾形がナマエをどうにかしてしまおうとしている不埒な輩にしか見えなかった。

「ナマエを、どうするつもりだ!?こんな事を言って、ナマエを孤立させようとして何が目的だ!」

「目的?」

「っ!」

それは羆を相手にした時でさえ感じたことの無い恐怖だった。薄ら寒い、人間の悪意を凝縮したどろりとした気味の悪さが、尾形の足元に纏わり付くようにして漂っているようにアシパには見えた。白々しく笑った尾形はアシパと視線を合わすようにして腰を屈める。その目にはアシパが映っているはずなのに、彼女には何も見えなかった。

「目的なんか無いぜ?……ただ、アイツが誰も信じられなくなったら、その時は。……俺の出番だろう?」

それ以上話す事は無いと言わんばかりに立ち上がった尾形は無言でアシパを置いて野営地へと戻っていく。残していった仲間たちに怪しまれてはならないと急いで後を追うアシパの内心で尾形の言葉が渦巻く。

(そんな事、ある訳ない……。ナマエが私たちを裏切るなんて)

必死に否定するのに、否定すればする程疑念が増すような気がしてアシパは怖くなって考えるのを止めた。あれだけ近しかった無二の親友の存在が今は酷く遠くてその事がただ、怖ろしかった。

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