ままならない感情を抱えたまま寫真館を後にしたナマエは、集団から少し離れて、前を歩く尾形の背を見ていた。尾形に触れられた手にはまだ、彼の触れた感触が残っているような気がして、ナマエはその手を確りと握った。あたかも自身の存在の確証を得ようとするように、或いは。或いは彼の温もりを逃さないようにするために。
そして網走まで約四十キロ程となり、いよいよのっぺら坊への旅路に終着点が見え始めた北見の地で最後の下準備をしようと杉元たちは街の中心部へと足を運んでいた。賑わいを見せる人々にナマエの気分も少し明るくなる。銃砲店で弾薬の補充をしたいという杉元たちに頷いてナマエは少し離れた露店を眺めていた。アシリパは杉元について銃砲店に入って行ってしまったため、ナマエは一人、何の気は無しに露店の売り台に所狭しと並べられた雑貨を見つめる。
もともとそう言った物が好きな事もあって、並べられた装身具や紅の類の物はナマエの目を楽しませる。資金的に豊かな訳では無いから無駄遣いは出来ないけれど、一つくらいなら。そうナマエが僅かに心を躍らせていた時だった。
「あ、」
彼女の目に留まったのは小さな根付だった。それは可愛らしい小さな兎の彫り物を赤い組み紐に括りつけたもので恐らく童子用の物なのだろう。装身具や紅を中心とした品揃えのその露店では少し浮いていて、売り台の端に追い遣られていた。
(……かわいい、)
自然と緩む頬をそのままに、ナマエが店主に声を掛けようとした時だった。不意に背後に気配がして、ナマエの視界に影が差す。
「何見てんだ?」
「っ!お、尾形……!」
びく、と肩を揺らすナマエに構う事無く尾形はナマエの視線の先を追う。そして件の根付を目に留めてナマエの顔を再び見る。
「あれが欲しいのか?」
「え……?あ、う、うん……」
一体尾形に何のつもりがあるのか分からなくて曖昧に同意するナマエに、尾形は一つ頷くと迷う事無くそれを手に取って店主に渡して会計を始めてしまう。あまりに素早い行動は、ナマエが我に返った頃には既に彼女の手の内には根付が握らされている程であった。
「え……、あ、ありがとう……」
「別に、安物だろ」
ぱちぱちと瞬きするしかないナマエの謝辞に尾形は肩を竦めて素っ気ない言葉を残して離れて行く。遠くなっていくその背中が怖くて、手を伸ばそうとしてもナマエには彼の袖は掴めない。ただ空しく伸びて揺れる自身の手は奇しくも尾形に触れられた方の手で。
その手を見つめても答えは出ない。それでも手の中にある根付は確かな事実だった。
「お礼しなきゃ……!」
俯けていた顔を上げて、辺りを見回した時、ふと、ナマエの目は先ほどの露店の売り台に留まった。
***
北見を出発して早一刻、と言ったところだろうか。少しばかり休憩を挟もうという事で、一行は小休止を取る事となった。しかし待ち侘びていた筈の休憩に、ナマエの心臓は破裂しそうな程に高鳴る。きょろきょろと挙動不審に辺りを見回したナマエはお目当ての人物が少し離れたところの木に寄りかかっているのを見つけて少しだけ安堵の息を吐く。あまり無い事だったが、彼が一行の中心にいたらどうしようかと思ったからだ。これから行う事を注目を浴びながらするのはかなり恥ずかしかった。
「……、あ、あの、尾形、」
震えて尻すぼみになる声でも尾形には聞こえたらしい。彼は座ったまま、視線だけをナマエに投げて寄越した。その目の力強さに及び腰になるナマエであったが当初の目的を思い出して自らを奮い立たせる。
「あの、さっきの、お礼。こ、こんなのしか、思い付かなかったけど……」
差し出された彼女の手に乗せられていたのは矢張り根付だった。ただナマエの物と異なっているのはそれが大鷲を模ったものであったという事だろうか。尾形の手に押し付けるようにそれを握らせたナマエはこのために一刻かけて考えた言葉を早口に述べる。
「カ、カパチリは人に幸いをもたらすカムイだから!」
辛うじてそれだけは言えたものの、既にナマエの頭の中は真っ白で準備していた言葉は半分も出てこない。とにかく残りこれだけは伝えようという言葉を何とか引っ張り出そうと、ナマエは必死に頭を巡らせる。頬が熱くて、半泣きで、こんなに恥ずかしいと思った事は無い、回らない頭で、彼女は確かにそう思った。
「さ、さっきの、凄く嬉しかったから……、絶対、大事にする!そ、それだけ!」
投げ付けるような言葉を言い切るや否や、くるりと背を向けて脱兎の如く仲間の許へと駆けていくナマエの背を見送って、そこで漸く尾形は我に返るように手許に意識を向けた。ほとんど無理矢理に握らされた根付はナマエに買い与えてやったものと同様安っぽくて、子供騙しで、かつての尾形であったなら凡そ下らないと一笑に付してしまうようなものだ。けれどどうしてだろう。
笑うように息を吐いて、押し付けられたそれを尾形はそっと仕舞う。
捨てる気になれないのはどうしてだろう。誰かに幸せを願われる事がこんなにむず痒いなんて彼が知らなかったからだろうか。
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