歩く、ただひたすらに。
杉元の治療をしながら、ナマエはただ前だけを見て歩いた。兄の事を告げた時全員が自分を疑いの目で見ていた事など痛い程に分かっていたし、言い逃れが出来ない事もまた、は分かっていた。だからナマエは何も言えず、ただ歩いた。背後から追って来る第七師団の足音に怯えながら。
「まずいな……」
誰かが呟いた言葉だったが、全員がそう思っていた事だろう。第七師団を撒くためとはいえ、全員体力的に限界の身体を引き摺りながら大雪山を超える。しかも尚悪い事に、天候が急激に崩れ始めていた。吹雪く雪山に、全員のなけなしの体力が削り取られていく。ナマエもかじかむ両手に必死に息を吹きかけながらどこか、暖を取れる場所はないかと探す。そして何か動くものを視界にとらえた。
「ユクがいる!」
ナマエの指差した先を全員が見る。白石は既に錯乱が始まっていて、ナマエたちは急ぎ三匹のユクを仕留めた。皮を剥ぐアシリパとナマエを手伝って、杉元と尾形も銃剣を手に取る。それからナマエは白石の脱ぎ散らした衣服をかき集めて何とかもう一度白石にそれを身に着けさせる。
「白石、早く!」
押し込むように白石を一匹目のユクの中に入れるナマエの横でアシリパと杉元が二匹目の皮を纏う。必然的に三匹目に尾形とナマエ、となる訳だが。
「あ……、」
ナマエは一瞬だけ躊躇った。尾形が嫌な訳では無いのに(むしろ嫌と言えるほど交流もしていないのに)、なぜか一瞬、躊躇った。
「オイ、来い!」
「えっ!?」
それでも一瞬戸惑ったナマエの腕がぐい、と引かれる。振り返れば顔を歪めた尾形がいた。
「お前も低体温症か!何を躊躇ってる!」
「う、うん!」
成す術なくナマエは尾形と共に三匹目のユクの体内に入る。風が凌げたことで僅かに落ち着きを取り戻したナマエだったが、背中に感じる尾形の熱にまた別の戸惑いが生まれる。なぜか心臓が走った後のように高く早く打ち、冷たかった頬に熱が上った。
「……す、杉元、大丈夫かな。酷い出血だったし、」
「ああ?不死身なんだから平気だろ」
無理矢理会話を捻りだそうにもすぐに終わってしまい、ナマエにとって気まずい沈黙が漂う。共通の話題も少なく、この無言の空間にナマエが所在無く身動ぎした時だった。
「お前、兄貴に会えたんだな」
「……え?」
ぶっきら棒な尾形の言葉が突然投げられてきて、ナマエは一瞬それを取り逃しそうになった。一つ間を空けてそれから漸く尾形の言葉の意味を把握したナマエは僅かに視線を落とした。兄の事を責められるのかと思ったのだ。
「うん……、元気そうだった……」
自分の言葉に対する尾形の次の言葉が怖くてナマエはぎゅうと目を瞑った。敵対する相手の血縁に彼らがどんな反応を示すのかナマエには分からなかった。怖かった。もし疑いの眼差しを向けられたらと思うと。心を許した仲間に信じてもらえなかったらと思うとその事が酷く恐ろしく感じられた。
沈黙が一瞬出来て、それから尾形が口を開く音がナマエの耳にははっきりと聞こえた。この時ばかりはナマエは自身の耳の良さを恨んだ。外の吹雪に尾形の声がかき消されてしまえば良いと思った。
「そうか、良かったな」
たったその一言にナマエは勢いよく目蓋を持ち上げた。それは彼女が予想だにしなかった言葉であった。まるで兄が生きている事を言祝ぐようなその言葉にナマエは堪らず半身に振り返る。ナマエの瞳に映る尾形は全ての感情を打ち消したような表情をしていた。それでもそれはナマエに何らの負の感情も抱かせることは無い。
「よ、かった?」
「あ?死んだと思ってた家族が生きてたんなら『良かったな』で良いだろうが。お前も兄貴の事嫌いじゃなかったんだろ?それとも、お前にとっちゃ死んでた方が都合の良い家族だったのか?」
「あ……ううん!生きてて嬉しいよ!嬉しい……、嬉しいよ。凄く、嬉しいから、どうしたら良いのか分からない……」
唇を噛み締めるナマエに尾形はナマエの首筋をじっと見た。俯くナマエのせいで白いうなじが強調されて光の入らない暗闇の中でもそれだけがぼんやりと浮かび上がるように見えた。
「どういう意味だ?」
「……兄は、私とは行けないと言った。第七師団に残るんだって。……つまり、私たちの敵、って事でしょう」
苦しそうに呼吸をしながら言葉を吐き出すナマエを落ち着かせるように尾形はその狭い背に手を当て、その背骨に沿って静かになぞった。その動作にはっとしたように震える吐息を零したナマエは自身を護るように胸の前で手を握った。
「ごめんなさい……、ちょっと、混乱してるみたい……」
言い訳染みた言葉に尾形は仕方なさそうに息を吐く。その吐息がナマエの首筋に当たったのか彼女は僅かに息を零して笑った。
「でも、全て本当の事だからちゃんと言わないと、だよね……。私の兄の事、ちゃんと……凄く怖い、けど」
「……あいつらは、そんなに信頼できねえのか」
「ううん、信頼してるよ。……でも、怖い。私はもう、拒絶されたくなくて、また拒絶されたらどうしようって、それが怖い。信頼してるはずなのに、おかしいね……」
ナマエの乾いた笑いが零れて、そして尾形は僅かばかり頭を巡らせた。それは吹雪の日、彼女の兄エコリアチが語った「彼の思い出」。それを思い出して漸く、尾形は彼女が決して全ての人間に受け入れられて成長した訳ではない事を思い出した。しかしその回想はナマエの躊躇いがちの問いに掻き消される。
「……あの、尾形は、私を怪しむ?私が、第七師団と内通したんじゃないかって、あなたは疑う?」
目を伏せるナマエに尾形は彼女の様子を窺うようにそっと、ナマエの身体に腕を回す。びく、と身体を硬くしたナマエだったが尾形がそのまま拘束を解かないと分かるとゆっくりと身体を弛緩させた。
「別に、お前みたいなガキを使ったところでどうこうなる程安いヤマじゃねえだろ。信じた訳じゃねえが、お前が内通してようがしてなかろうがそれは些末だ」
尾形らしい物言いにナマエは苦笑する。それでも尾形の言だからこそ、ナマエにはなんとなくそれを信用することが出来るような気がした。それはナマエの勘でしかなかったけれど、どうしてだか彼女はそう思った。それが僅かばかり救いだった。
「……逆に聞くが、お前は、俺の事について何か聞いたのか?」
唐突に尾形の低い声がナマエの耳朶を打つ。ナマエはそれに躊躇わずに頷いた。それから少し微笑んだ。
「どうして言ってくれなかったの?あの時の軍人さん、尾形だったって本当?兄が教えてくれたよ」
「は?お前がそれを言うのか?俺は何回も、」
「え?何かあったっけ?」
「……何でもねえよ。馬鹿」
ふてくされるように小さく息を吐いた尾形にナマエは声を上げて笑った。久し振りに、笑った気がした。
「あの後、大丈夫だった?ごめんね、私何にも出来なかった。いつも、そう。私は何にも出来なくて、兄や周りの人に助けてもらうだけ」
自嘲気味に微笑んだナマエの言葉を最後に二人の間に沈黙が落ちる。びゅうびゅうと激しく吹き付ける風の音が響いて、ナマエは少しだけ怖くなって尾形に縋るように彼の手に、自身の手を重ねた。
「…………私はもっと人の役に立ちたいのにな」
静かな声が静寂を掻き消して、そして再び静寂に吸い込まれて消える。どうしてこんな話をしてしまったのか、ナマエ自身分からなかった。なぜか、尾形に話してしまいたいという気持ちになってしまったのだ。懺悔めいたその言葉を誰かに、尾形に聞いて欲しいと思った。
「ごめんなさい……、こんな話をしてもあなたは困るよね。……今の話は忘れて。私は何も出来なかったけど、尾形が生きていて本当に良かったと思う。どうして川に落ちたのかは知らないけど、今度は気を付けてね」
困ったように笑うナマエの表情を想像しようとしたのに、尾形はなぜか出来なかった。それどころか彼女の顔すらも思い出す事が出来なくて、我慢出来なくなって尾形はほとんど無理矢理ナマエの身体を腕の中で半分転がして、その顔を自身の方へと向けさせる。
「どうしたの、?」
虚を突かれたような顔をしたナマエだったが、その表情の下には隠し切れない疲れが見えた。それは江渡貝剥製所でナマエが一瞬だけ見せた表情に似ていて、尾形は仕方なさそうにため息を吐く。
「……あと少し遅かったら、俺は低体温症で危なかった」
「そう。間に合って良かった。あなたにはとても強い憑き神が憑いているんだね」
「憑き神?」
「うん。トゥレンペといって人が生まれた瞬間から守り神として憑いている。尾形が危ういところを助かったのもトゥレンペのお陰だよ」
「馬鹿。……それはお前が、」
どこか他人事のように微笑んだナマエに苛立ちを感じながら尾形は彼女の瞳を見た。初めて見た時は意思の強そうな瞳をしていると思った。けれど、今もう一度その瞳を見た時、そこに以前のような強い光は無くて尾形は知らず奥歯を噛み締めた。それから気恥ずかしさを押し殺して息を吐き出す。
「……医者から、聞いた。『お前の治療が無かったら助からなかった』ってよ」
ぴく、とナマエの身体が動いたような気がして尾形は彼女の顔から目を逸らす。どんな表情をしていいのか分からなくて、彼女の顔を見ていられなかった。声音もそれに伴ってぶっきらぼうなものになってしまう。他人にかける優しさなんて、尾形はとうの昔に忘れてしまっていた。
「少なくとも、そのトゥレンペってやつよりはお前の方が命の恩人だと、俺は思ってる」
「……え、」
一瞬だけ見たナマエは目を見開いて、随分と間抜けな顔をしていた。それがなぜか尾形の琴線を震わせて、彼は息を吐くように自然に笑って、そしてナマエの頭を乱暴に撫でる。
「まあ、なんだ……あの時は助かった。お前が何も出来ない奴じゃなくて良かった」
「…………、ほんとう?」
吐き出されたナマエの声は震えていて、「ああ、こいつは泣くな」と尾形は少しだけ厄介に思った。泣いた女を泣き止ませる術を彼は知らず、知る必要も無いと思っていたから。それでも今、目の前のこの少女を泣き止ませる術くらい、知っておくべきだったと彼は少しばかり、後悔めいたものを感じた。
「嘘なんか吐いてどうするんだ。お前みたいなガキのご機嫌取って、俺に益があるのかよ」
「無い、と思う。……じゃあ、私、尾形を助けられたの?良かった、本当に嬉しい。私でも、出来た事があったんだ……」
泣き出しそうなのを耐えるように眉間に力を入れるナマエに尾形は不思議そうに首を傾げる。そして彼の中で燻っていた問いを口にする。
「見も知らねえ、挙句の果てには元々敵対していた人間が助かって、そんなに嬉しいか?」
「嬉しいに決まってるよ。あのね、アイヌの言葉にこんな言葉があるの。『天から役目なしに降ろされた物はひとつもない』って。きっと私はあそこで尾形を助けるっていう役目があったから生まれたんだよ。尾形があそこで死ななかったのだって、きっとまだ尾形には役目があるからだよ。そうやって、誰かの役目が誰かを助けて世界は繋がっていくんだよ」
ごしごしと、乱暴に目を擦りながらナマエは興奮したように頬を赤らめて満面の笑みを見せた。その顔の明るさに尾形は苦く笑った。一瞬だけ、感傷と郷愁を感じて。
「……祝福されずに生まれた子供にも、役目はあるのか?」
「え?」
「何でもない。……忘れろ」
不思議そうな顔をするナマエに尾形は今度こそ居た堪れなくなって目を逸らした。尾形自身自分に困惑していた。過去は捨てたつもりだったのに、どうしてだかそれは尾形の一番深い奥底、誰にも触れられないところに澱のように堆積していた。そしてそれは揺さぶられて今また舞い上がって尾形の感情の中に充満していた。
「…………祝福されたから、この世に生まれて来たんだよ」
「は?」
「神様に祝福されてこの世に降りてきて、家族に祝福されて名前を与えられる。沢山の人に祝福されて大きくなる。この世に生まれてきて、誰にも祝福された事無い人なんて、いないんじゃないかな、と思う」
微笑んだナマエはそれからはっ、と気付いたように顔を上げて尾形を見つめた。何かを感じたように尾形の心臓の上辺りに白くて小さな手を置いたナマエはそれから少しだけ考えるように口を噤んだ。それから顔を上げて尾形の目を見る。彼の昏い瞳と彼女の琥珀色の瞳が真っ直ぐにかち合った。
「それでももし、ね。もし、尾形が誰にも祝福されてないって思ったら、私が尾形を祝福する。尾形をこの世に降ろしてくれてありがとうございますって、神様にお礼を言うよ。……私の祝福なんて、要らないかも知れないけど」
得意そうに笑ったり、かと思えばしょぼくれたりと忙しいナマエに尾形は目を細めた。感情が綯い交ぜになってどんな顔をしていいのか本気で分からなくなっていた。それでも何か言わないと誤魔化せないような気がして無理矢理言葉を紡ぐしかなかった。
「馬鹿、……俺の話だとは、言ってねえだろうが。それに、仮に俺の話だったとしても祝福するならもっとマシな人間にしときな」
「え?どうして?私は尾形が生きてて良かったって思うし、あなたをこの世に降ろしてくれた神様にお礼を言いたい。私、忘れてないよ。夕張で私が辛かった時、あなたは私の話を聞いてくれた。あなたは忘れちゃったかもしれないけど、私は凄く嬉しかったから」
優しく笑ったナマエはそっと尾形の額へと手を差し伸べる。一瞬彼は逃げるように顔を引こうとしたが、ナマエに害意が無いと分かるとそれを受け入れるようにゆっくりと目を伏せた。
「ありがとう。あなたがいてくれて良かった。私の道と、あなたの道が交わっていて、良かった」
初めて会った時のように慈しむように尾形の額を撫でるナマエだったが不意に一つ、大きく欠伸を零す。当然と言えば当然だった。旭川の第七師団本部を抜け出してから逃げ通しで、しかも追っ手の気配を探るために彼女はずっと気を張っていたのだから。それを漸く、彼女は尾形の腕の中、束の間の安息を得たのだろう。
「眠いなら寝とけよ。体力を回復させねえと倒れられても困る」
つっけんどんな言葉とは裏腹にナマエが眠りに落ちやすいように体勢を変えてやる尾形にナマエはくす、と吐息のような微笑みを零す。
「初めて会った時は尾形ってもっと怖い人かと思ってたけど、なんか、凄く安心する。……兄さんみたい、」
「そうか。お前の兄貴はお前に優しかったのか?」
「うん……。兄さんはずっと、私にやさしかった。なんども、たすけてもらったよ……。狼もお化けも『大人たち』も、にいさんがいればこわくない……」
だんだんと微睡みに取り込まれていくように輪郭のぼやけた声を発するナマエに尾形はそっと彼女の顔を窺う。目蓋が少し落ちて眠そうなナマエに尾形は穏やかに微笑んだ。
「寝とけ。……次に起きたらまた歩くぞ」
「うん……。尾形も、いっしょ、」
すう、と吐息があってそれから規則正しい呼吸音。彼女の顔を窺えば、酷くあどけない寝顔がそこにはあった。彼女を起こさないように腕の中にもう一度抱え直して、そして尾形も静かに目蓋を下ろした。吹き荒ぶ風の音は相変わらず酷かったけれど、それでもそれは彼の感情を乱すものには成り得なかった。
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