怖れに満たない

暗闇の中を歩いているような気がした。足元も覚束無い暗黒を手探りで何処へ向かうのかも分からずただひたすらに進んでいるような。不安に惑い、光を探すのにそれは何処にも見当たらない。それは暗い、昏い道のりだった。

***

不意の物音に身動ぎしたナマエは薄らと目を開けた。旭川を脱出してからもう幾日経っただろう。ナマエが唯一の肉親と再び別たれてから幾日。今でもまだ、ナマエは旭川にいた兄は鶴見の用意した精巧な影武者なのではないかとすら思っていた。

それでも彼に触れたところから感じる熱やナマエを気遣う彼の声音は泣きたくなる程に以前のままで、その事が余計にナマエを苦しめる。

実の兄と全てを捨てて新しい生活を始められると聞いた時、ナマエは本当に嬉しかったのだ。この世にたった一人放り出されたと思っていたけれど、自分にもまだ血の絆が残っていたのだから。それでも、それを選べば同じくらい大切な親友を裏切る事になる。その板挟みはナマエを酷く傷付けた。

(……選べないよ)

兄も親友も、どちらも大切なのだ。どちらか一つなんて到底無理な話だった。

ゆっくりと起き上がれば、辺りはまだ薄暗く、仲間たちも静かな寝息を立てているようであった。時折白石だか杉元だかがむにゃむにゃと判別不能な寝言を漏らす以外は至って静かな空間にナマエは怖々と息を吐いた。物音を立てて誰かが起きてしまうのが怖かった。夜のこのひと時だけがナマエの憂鬱を束の間忘れさせた。尤も、それは一時的なもので忘れれば忘れる程に憂鬱は更に肥大してナマエを責め立てたのであるが。

(刺青さえあれば)

何度そう思っただろう。それでもナマエは出来なかった。無二の親友を裏切る事が怖かった。裏切ってしまえばもう二度と、彼女と共にある事は叶わないと知っていたから。

苦しみから逃げるように自身の身体を抱いて、ナマエはふと辺りを見渡して気付く。尾形の姿が見えなかった。

辺りを見渡してみても尾形の気配はちら、とも感じられず、ナマエは首を傾げて立ち上がった。耳を澄ませば川の方から水音とは違った音が聞こえてきたため、ナマエはそちらの方に足を向けた。

苔や夜露に滑る地面を慎重に歩くナマエの耳に聞こえる水音は次第に大きくなってくる。漸く大きな茂みをかき分けて川辺に出たナマエを大きくて明るい月が煌々と照らした。

「……何か用か?」

そこには上半身に何も纏っていない尾形がいた。彼は濡れた手拭いで身体を清めていたらしい。傍らには几帳面に畳まれた服が置かれていた。

「あ、ごめんなさい……。目が覚めたらあなたがいなかったから……」

恥じらうように尾形のしなやかな体躯から目を逸らすナマエに尾形は興味をそそられなかったのかただ一言「そうか」と返した。尾形は再び手拭いを川水に浸して絞り、その身体を拭っていく。一連の流れを恐る恐る見ていたナマエはぼんやりと瞬きをして尾形の身体に手を伸ばした。警戒するように半身で振り返る尾形にナマエは一瞬手を揺らし、それから迷うように尾形の腕の一点を指差した。

「……腕、傷がある。…………戦争の?」

「いや、……茨戸で少しな」

「そうなんだ……。私も腕にあるよ。昔ね、狼に襲われて、それで兄さんが……」

不意に口籠もるナマエに尾形は彼女の方に静かに視線を巡らせた。ナマエは視線を落としてぼうっと揺らめきながら月明かりを反射する川面を見ていた。その口から言葉は出てこなかった。彼女の言葉を促す事も奪う事もせず、尾形はもう一度手拭いを川に浸す。

「…………兄さんと、ちゃんと、家族になりたい」

小さな呟きに尾形はぴくりと眉を動かした。振り返ればすぐ近くにナマエがいた。

「へえ……。ついに『その気』になったって訳か」

ナマエの琥珀色の瞳が銀色の月光を反射させて鈍く光るのを尾形は口端を持ち上げて見る。ナマエは尾形の暗くて怪しげに光る瞳の奥を見ようとして眩暈に襲われるような感覚を得た。暫く見つめ合っていた二人であったがどちらからともなく視線を外す。尾形は肩を竦めるように首を回すと手拭いを無造作に置いて衣服を身に纏い始める。

「それで?どうやってあいつらを出し抜く?俺としちゃあ、寝込みを襲うのが」

「……でも、アシパを裏切りたくない」

楽しそうに裏切りの計画を口にする尾形を遮ってナマエは首を振る。ナマエの言葉に尾形はシャツの釦をゆっくりと留め終えると聞き分けのない子どもを嘲るような含み笑いで振り返った。

「この期に及んでまだ善人ぶりたいのか?それとも親友を裏切るのが怖いのか?それなら教えてやる。道理さえあれば恐怖も罪悪感も感じねえよ。お前には道理があるだろう。『兄貴を助ける』っていう立派な道理が」

「……そう、だね。私にはアシパを裏切る事が出来る理由があるのかもしれない」

逡巡するように揺らめくナマエの瞳を覗き込むように、尾形は彼女の頬に手を這わす。冷えた川水に晒されていたせいか彼の手は酷く冷たくて、ナマエは一瞬肩を竦めた。尾形は逃げるように顎を引くナマエを追うように自身の顔を近付ける。吐息すら混じり合いそうなその距離にナマエは慄くように唇を引き結ぶ。

「なら、」

「でも、」

ナマエの力強い言葉に尾形は瞠目する。ナマエの瞳は雫を湛えて揺れていた。それでもその瞳は狼のように強く気高い光を纏って輝いていた。眩しいくらいのその光に一瞬尾形は目を焼かれるような感覚を味わってその目を細める。ナマエは尾形の手首に手をかけて瞬きをした。そのせいで溜まっていた雫が彼女の白い頬を静かに伝って落ちる。

「裏切りたくない。アシパを、私の大切な人を。あの子がいたから私は兄さんがいなくなっても誰も恨まなかった。あの子がいたから私は一人じゃなかった。あの子も兄さんも、私には必要なの……!」

震える声を止められずに大粒の雫をぽろぽろと零すナマエの顔を尾形は観察するように静かに見つめていた。しゃくり上げるナマエが尾形の身体に縋るようにして膝を突く。彼女に引っ張られるようにして身体を屈めた尾形は何も言わずにナマエを見つめた。それでも、口にせずにはいられなかった。

「……そんなに、アシパが大切か?」

尾形には分からなかった。肉親ならいざ知らず、結局はアシパはナマエにとって赤の他人に過ぎないのだから。そして尾形は知っていた。「親友」という言葉など薄っぺらくて取るに足らないものであるという事を。

「……大切だよ。生まれて初めてできた、友達なんだ」

「お前の兄貴よりも?血を分けた、唯一の家族だろう。アシパはお前の兄貴みたいにお前を『大人たち』から守ってくれたか?お前のためにあいつが何をしてくれた?」

「…………一緒に、いてくれた。ずっと、一緒に」

震える声で、それでもナマエは尾形を見た。頬を伝う涙はそのままに、ナマエはアシパへの想いを口にする。

「……『大人たち』が私たちを遠ざけた時、それは仕方の無い事だったのに一瞬私は『どうして私が』って皆を憎みそうになった。でも、アシパがいたから私は人を憎まずにすんだ。アシパだけが、ずっと一緒にいてくれた。私が今も私でいられるのはあの子のお陰なのに、裏切れる訳ない……!」

全てを吐き出した事に呼応するように止まらないナマエの雫を、彼女に捉まれていない方の手で無造作に拭ってやった尾形は、それからその手で顔を覆い深々と息を吐いた。それは彼の腹の中に溜まった鬱積とした想いを吐き出すためにも見え、違うようにも見えた。尾形は改めてナマエをその目に映すと静かに唇を持ち上げる。その笑みがまるで自嘲のそれに見えて、ナマエは訝しそうに目を瞬かせた。

「……俺は、俺とお前は似ていると思っていたが……、どうやら違うらしい」

ぽつりと零されたその言葉が存外寂しげに静寂な空気に溶けていったのをナマエは聞いた。しかしその言葉の意味を問う事は出来なかった。聞いたってきっとはぐらかされる事は分かっていたし、それが彼の私的な部分に立ち入る事もまた、ナマエは分かっていたのだ。だからこそ、彼女は彼の冷えた身体にただ身を寄せた。彼に縋るように、彼を暖めるように。大きな背中に手を回して、ナマエは尾形に抱き着いた。

「……何のつもりだ」

「分からない。……でも、今はこうした方が良いんだって思った。私のためにも、あなたのためにも……」

言うべき言葉を必死に探すナマエに尾形は中途半端になった自身の手を迷うように揺らした。その手をどこに置いたらいいのか分からないとでも言うように。

「どうしたら良いのか、ずっと分からなかった。兄さんもアシパも、どっちも大切だから。……だからどっちも選べる道を探したいって思う。旭川からずっと考えてたけど、これしか選べない……」

硬いナマエの声音に尾形は失望したように笑った。結局、そんなものか。そう、心の中で言ちて。しかし。

「……だからね、まずはアシパと金塊を探そうと思う。兄さんがどうしてあちら側にいるのかは分からない。でも、金塊を探している事は同じだから。同じものを探しているなら、きっといつかまた会えるよね?それで、……それでね、見つけたら引き摺ってでも連れて帰るんだ。もう良いよって。私のために無理しなくて良いよって、そう言うんだ」

もう決めた。どちらも選べないから、両方選ぶ。

ナマエの妙に明るい声が静寂を破る。ナマエの選択に尾形は驚いたように目を見開いて。

「ははッ……」

「え!?笑うところ!?結構頑張って考えたんだよ!?ま、まあ、ほとんどは今、尾形と話してて決めた事だけど……」

笑われた事に目を白黒させて、それでも頬を膨らませるナマエに尾形は更に声を上げて笑う。酷い!とでも言うように唇を尖らせて尾形の身体から離れようとするナマエをしかし、尾形は有無を言わせずに抱き寄せた。

「……内地には『二兎追う者は一兎も得ず』っていう言葉があるんだが?」

笑いを誤魔化すように低く呟かれた尾形の声に、ナマエもくすり、と笑みを零す。

「大事なものは手放しちゃいけないから欲張りなくらいが良いんだよ。……私はもう、手放したくないもの」

「戻ってくる気があるなら旭川でお前が説得した時に戻ってくるだろう、普通」

「そこを突かれると凄く苦しいけど、兄さんは言ってた。『迎えに行く』って。兄さんも私と一緒に暮らしたいのは同じだって思う」

「それで?あいつらにはどう言うつもりだ?まさか何も言わねえって訳じゃねえだろうな?」

「明日言うつもり。もう、隠し事はしたくないから。皆が信じてくれるかは分からないけど……」

不安そうに、それでも強い意思を持って尾形の問いに答えていくナマエに尾形は彼の中で感じていた失望を僅かに打ち消した。彼女の結論が甘いものである事など彼は当然知っていた。エコリアチが何を思って今も鶴見に付き従っているのかは知らなかったが、あの男の意思が固い事など尾形は疾うの昔に気付いていたのだから。それでも馬鹿正直に兄を信じ続けるナマエに彼は僅かに関心を示した。或いはその結末に興味を示したと言っても良い。とにかく、尾形は確かにナマエに対する自身の認識が変わっているのを感じていた。

「…………あの、尾形?」

ナマエの呼び声に尾形ははっと、自身の腕の中の小さな塊に視線をやる。不思議そうに彼を見上げるナマエの瞳の無垢さが尾形には遠く思えた。

「悪い。何だ?」

「あ、ううん……、何でもないけど、あの、ずっとこうしてるのは少し恥ずかしいなって……」

言われてはたと、尾形は自身と彼女の体勢を見た。ナマエを抱き締める、己の影を。

「…………餓鬼が一丁前に色気付きやがって」

「ち、違うよ!そういうつもりじゃなくて!」

僅かに心に湧き起こるむず痒さのような感覚を誤魔化すように鼻を鳴らした尾形にナマエが慌てたように首を振るのに、今度こそ尾形は声を出して笑った。腕の中に集めた熱は、ナマエを解放してしまえばすぐに薄らいでいく。その喪失を少しばかり「残念だ」と思った事に、尾形は声を上げずに笑った。しかしながらナマエは揶揄われた事に憤慨するようにそっぽを向いていたから、彼の表情には気付かないようであった。

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