思惑の果てに

鶴見が小樽へと帰って行っても、第七師団のナマエに対する処遇は変わらなかった。鶴見の第七師団での影響力の強さにナマエは改めて彼の底知れ無さを実感する事となった。

「あの人はいつの間にか組織の中枢に食い込んでるんだよ」

例のチタタ大会以来何となく打ち解けつつある兄のエコリアチの訪問を受けながら、窓の外を見るナマエは僅かに微笑んだ。簡単に想像が出来たからだ。手練手管を弄して我が道を行く鶴見の姿が。

「……、なあ、ナマエ」

「なに?兄さん、」

ソファに座ったエコリアチは黒灰色の瞳で、ナマエを見つめた。凪いだ瞳には沢山の感情が込められていて不可思議に揺れていた。手招きをされてナマエは素直に兄の許に近付く。ソファの座面を軽く叩かれてナマエはそこに静かに座った。大きな手がナマエの浅葱鼠色の髪を繊細に梳いた。ナマエもそれを甘んじて受け止める。

「……お前のマキリはちゃんと返ってきたか?」

「マキリ、?」

それは唐突な質問であった。ナマエにとってみれば思いもしなかった問い。すぐには正しい返答を見付けられなくて口篭もるナマエにエコリアチは怪訝な顔をする。

「……?尾形には、もう会ったんだろ?俺が奴にお前のマキリを持たせたんだけど」

「え……?兄さんは尾形を知っているの?」

「知ってるも何も、俺と尾形は『戦友』だぞ」

いかにも不満ですとばかりに顔を歪めるエコリアチにナマエはぱちりと目を瞬かせる。江渡貝剥製所でたまたま出会った尾形と、自分の兄がまさか知り合いだったなんて。

「世界は狭いんだね……。じゃあもしかして私が助けた軍人さんの事も知ってるんだ」

穏やかな光を湛えてエコリアチを見つめるナマエの言葉にエコリアチは怪訝な表情をする。まるで「何を言っているんだ」と言わんばかりの表情にナマエも怪訝な表情をする。

「お前、もしかして何も知らないのか……?」

「何も、って?」

「だから、お前が助けた瀕死の軍人は尾形だったって事」

「……え?」

お互いに怪訝な顔で顔を見合わせる二人だったが、エコリアチは深刻な顔でナマエの頭を撫でる。その時だった。窓の外がわっと騒がしくなる。耳の良いナマエでなくても気付く程に、それは大きな音のうねりだった。

「始まったか……」

表情と同じくらい深刻な声に不安げな顔を見せるナマエを安心させるようにエコリアチは彼女をその腕に抱いた。まるで別れを惜しむように。ぎゅう、と抱き締められてそれから至近距離で確りと目を合わせられ、兄の黒灰色の視線と、ナマエの琥珀色の視線が交錯した。状況は切迫しているはずなのに、ナマエはなぜか兄の瞳の色が自分が思っていたよりもやや薄い色をしているという事を場違いに知った。

「よく聞くんだ、ナマエ。今から俺はお前を杉元のところに連れて行く。連れて行くから後はお前の好きにしろ。俺は一緒には行けない。だから俺の事は気にするな、お前のやりたいようにやれ、いいな?刺青の写しを取って来たら俺を解放するなんて鶴見中尉に言われてるんだろうが、そんな事は気にしなくていい。……それから、次に会った時も守ってやれるかは分からない」

「杉元たちが来ているんでしょう?に、兄さんも一緒に行こうよ……!皆なら、きっと分かって、」

「駄目なんだ。俺は俺の意思でここにいる。今更、もう後には退けない」

強い覚悟を持った一言を与えられて、ナマエは無理矢理に抱え上げられる。それから、エコリアチはもう一度だけナマエを下ろしてその瞳を覗き込むように見た。黒灰色の瞳が優しく歪んでそして彼女は抱き締められた。きつく、きつく。

「全てが終わったら、迎えに行くよ。お前が望もうと、望むまいと」

耳許でそう告げられて、再び抱え上げられたナマエは一人では出ることの叶わなかった部屋を飛び出した。

エコリアチがその足で蹴り破った窓から。

咄嗟の事で悲鳴らしい悲鳴も出せず、ナマエはエコリアチに抱えられたまま二階の窓から地面へと着地した。

「ええええっ!?」

「静かに!いいか?ここをまっすぐに走れ!そしたら、奴らに合流できるはずだ!絶対に振り向くなよ!行け!!」

「っ、にいさ、」

「行け!早く!!」

鋭い声に後押しされるようにナマエは走り出した。何度も振り返ろうとして、その度に兄の言葉が頭を過ぎって前だけを見る。走って走って一本開けた道に飛び出た時だった。

「っ、ナマエさん!!」

「杉元!白石も!良かった、無事だったんだね」

右手側から聞き慣れた声がして振り向けば杉元たちが走ってくるのが見えて、ナマエは安堵の息を吐く。それから血まみれの杉元を見て表情を曇らせた。

「すぐ手当てしないと!どこか安全な場所に……」

「そんなもん、どこにあるっていうんだ!?」

「南だ、そっちへ逃げろ!」

尾形の誘導で必死に足を動かすナマエたちだが、杉元の足取りは重い。よろめく彼を支えながら走るナマエに杉元の弱々しい声が届く。

「俺が、倒れても絶対に止まるなよ……。アシパさんは、ナマエさんの事……ずっと、心配してて、」

「止まらないよ!絶対に、杉元の足も止まらない!皆でここを逃げるの!」

足元に被弾する銃弾を躱しながら走り続ける一行の目の前に巨大な気球艇が見える。目の良いナマエが指差すまでも無かった。全員で頷き合って、彼らは気球艇の方へ持てる限りの力で走った。

***

「ナマエ……ッ」

「鯉登ニパ……、」

荒い息を吐くナマエを護るように尾形が前に進み出るのを、鯉登は苦々しげに睨み付けた。その視線に怯えるように身構えるナマエに鯉登は更に顔を顰め、それに気付いた尾形は唇を歪める。

「へえ、鯉登少尉ともあろうお方がこれはこれは……、」

「っ、尾形上等兵……!貴様……ッ」

にやにやと挑発するように笑う尾形を鯉登は悔しそうに睨んだ。尾形の背中に縋るように身体を寄せるナマエは不安そうな顔で事の成り行きを見守っている。間合いを詰めるように一歩踏み出した鯉登を警戒するように体勢を低くした尾形はしかしナマエを庇うように腕を動かした。

「尾形、」

「下がってろ。……旭川に戻りたくなかったらな」

唸るように低く呟いた尾形に慌てて頷いたナマエだったが、眉を下げて鯉登を見た。彼女の脳裏に浮かぶのはあの夜の事。鯉登とは置かれている立ち位置こそ違うけれど、どうしてだか彼が「悪い人」にはナマエには見えなかったのだ。勿論だからと言って彼について旭川に戻る気にはなれなかったけれど。

睨み合う鯉登と尾形らにナマエは心中項垂れた。出来ない事は痛い程分かっていたけれどどうしても、争わない方法を模索したかった。

***

空を行くなんて体験はナマエには未知のものだった。それでも、心は晴れない。風になびく髪をそのままに、ナマエはただ、流れる景色を瞳に映していた。心にあるのはただ、兄の姿だけであった。

鯉登を何とかやり過ごし、杉元の治療も終わらせたナマエたちであったが、試作機の気球艇はあっという間に制御を失って後は風の向くままに気球艇が着地するのを待つだけだ。アシパたちもナマエの異変を読み取っているのか様子を窺うも、話しかけてはこない。その事が余計にナマエの中で兄の顔を浮き彫りにさせた。

「……そう言えば、ナマエちゃんはどうやって逃げ出したんだ?」

不意に白石の声が聞こえて、ナマエは思考の渦から強制的に引き摺り出される。慌てて白石の方を見ればそこには疑念を纏う八つの瞳がナマエを見つめていた。

「どうやって、って?」

「俺たちは鈴川聖弘を網走監獄の典獄に成りすまさせて侵入したがお前は違うだろう?あの厳重な第七師団本部から、どうやって『一人で』出てきた?」

「おい、尾形!」

目を細めて口端を持ち上げる尾形にナマエは唇を噛む。アシパに咎められても尾形は肩を竦めるだけで、挑発するような笑みは消えない。ナマエは険しい顔をして、それからか細く息を吐いた。

「…………、兄、が」

「は?」「え?」

白石と杉元の困惑した声にナマエは泣きたくなるのを必死に堪えながら言葉を続ける。目を逸らしたくて仕方が無いのに、ここで目を逸らしたら取り返しのつかない事になりそうな気がして、ナマエは必死に彼らを見つめ続けた。

「兄が、助けてくれた。旭川本部に、兄がいたの」

押し殺すような言葉に一瞬沈黙が走る。しかし次の言葉を誰かが吐き出す前に気球艇の高度が目に見えて低くなり始めたせいで着陸態勢をとるため、全員の言葉は失われた。ナマエはただ己に課された仕事を必死にこなした。脳裏を過ぎる兄の顔を、疑惑に満ちた四人の瞳を、今だけは忘れたかった。

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