網走監獄侵入大作戦と銘打たれて始まった穴掘りが佳境を迎えた夜、ナマエはふと、目を覚まして寝床から起き上がった。時間の程は分からなかったが、外が暗く、仲間たちが寝ているところを見ると深夜なのだろう。起きた時間帯が悪かったのかやけに冴えてしまった身体を抱えて彼女は寝床を抜け出した。
静かで、そして清涼な風の吹く夜だった。星明りと、それからコタンに据え付けられた僅かな灯り以外は道を指し示すものは無い。しかし常人には歩きにくい道も、ナマエには無問題だった。むしろ余計な光源が無い分、昂る感情を抑えられるような気さえした。
網走監獄に侵入するまでもう日が無かった。それなのにナマエの心の準備は全くできていなくて、惑うばかり。日に日に嫌な想像や感情が彼女の心を支配して肥大化していく。それでも迷いを口にしてしまったら何かが決定的に取り返しのつかない事になるのではないかと怖くて、彼女はそれを口に出来ずにいた。
静かに掌を上にして空間を見透かすように遠くを見つめても、インカラマッのような力を持たないナマエには何も見えない。諦めたように少し笑ってチセに戻ろうと踵を返したナマエだったが思い直したように振り返った。
「つくづく夜に出歩くのが好きな奴だな」
そこには呆れたような顔をした尾形が佇んでいた。ナマエが僅かに首を傾げて彼を見ていると、尾形はその視線に応えるように自身の水筒を掲げて見せた。
「そういうあなたも、夜に出歩いてる」
「仕方ねえだろ。喉が渇いたのに水筒が空だったんだよ」
「そう」
ナマエの返事を最後に辺りは再び静謐に包まれる。人工的な音が消えた世界は騒めいていたナマエの心を落ち着けて、その感情を緩ませる。今なら、臆する事無く口を開けると、彼女は感じていた。尾形もナマエの気配を感じ取ったのだろう。ナマエに対して手招きをして、元来た道を踵を返して戻り始める。当然のように尾形の背を追うナマエがその場からいなくなってしまえば、残ったのは風の音と松明の弾ける音、そして星の瞬く音、それだけだった。
「尾形、待って」
星明かりがあるとは言っても真昼よりはうんと暗い道を、尾形は昼間と同じようにナマエにとっては早足で歩いて行く。置いて行かれないようにするのに必死で彼女は尾形が己をどこに連れて行こうとしているのかにまで気を回す事も出来ない。
「……尾形ってば、……!」
不意に立ち止まった尾形の背にぶつかりそうになって慌てて立ち止まった。そこにあったのは川だった。コタンから少し離れていてここならば少しくらい大きな声を出したって聞こえないだろう。そしてだからこそ、ナマエは尾形がなぜ自分をここに連れてきたのかが分かった気がした。
尾形は何も言わずに傍らの木の幹に身体を預けてナマエの顔を見ている。ナマエも言葉が整わなくて尾形の顔をただ見つめていた。言いたい事は沢山あったのに、そのどれもが言葉にならなくてナマエは俯いて手を握り締める。網走監獄に侵入する前に、全ての憂いは払っておきたかった。あの夜の事も、全て。
「…………あの、」
「……悪かったよ」
「え……?」
それなのに、言葉を吐き出すよりも先に尾形によってナマエの言葉は盗まれてしまう。呆然と尾形を見つめるナマエに、尾形は疲れたように息を吐いて暗い瞳でナマエを見た。出会った時のような、暗い瞳で。
「嫌だったんだろ。悪かった、もうしねえよ。……もう、お前にも近付かね、」
「っ、そういう事が聞きたいんじゃない!」
ぱっと木々で微睡んでいた小鳥たちが逃げるように飛び立つ。はあはあと肩で息をするナマエを、尾形が驚いたように見つめている事を、彼女はどこか遠くから客観的に見ているような気がした。
「聞きたいのは、そんな言葉じゃない!私は、理由が知りたいの。尾形が、何を思って私にあんな事をしたのか、知りたい……!」
風が木の葉をさわさわと揺らして、ナマエの声が途切れた後の静寂を埋める。さざ波の立つ川面の辺りまで、魚が来たのだろうか、ぱしゃ、と水の跳ねる音がして、また星明りの降り注ぐ静寂が訪れる。その間、尾形は一言も口にしなかった。答えを考えているのか、ナマエの真意を測りかねているのか、彼女には尾形の内心が分からなかった。それでも、今を逃したらもう、永遠に答えなど与えられないという確信を、何故か彼女は持っていた。
「あれは、特別な人にする事じゃないの?私と尾形の間には、何も無いのに、何も無いのに尾形はそういう事が出来るの……?」
力無く、肩を落として唇を噛むナマエを尾形はただ見つめていて、ナマエは今更ながらこの場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。曖昧に答えが与えられるのが怖くて、或いは答えが存在しないかも知れない事が怖くて。
「…………、何も無かったら、やっちゃいけねえのかよ」
「…………え?」
「お前と俺の間に何かが無いと、ああいう事はやっちゃいけねえのか」
突然の逆質問にナマエの動揺は激しくなる。思ってもみなかった質問に答えかねているナマエであったが、尾形は端から彼女の答えなど期待していなかったらしい。彼は僅かな苛立ちを隠そうともせず続けて口を開く。
「お前の方には、何もねえのかも知れねえが……、俺の方には、…………何か、あるかも知れねえだろ」
ばつが悪そうな顔でナマエから顔を逸らして、しかも声も小さくて。いつもの尾形らしくないその姿にナマエはぱちぱちと目を瞬かせる。きまり悪そうに視線を右下に落とす尾形にナマエは半信半疑で口を開く。
「何か、あるの……?」
「……かも、な」
僅かに空気を揺らす音に、ナマエの思考は漸く機能を始める。尾形の言葉の意味を反芻して、消化して、今漸く、少しばかり理解して。
「……は、ぁっ!?」
「うるせ、ある『かも』だ、『かも』」
「え、っ、え、え、えっ」
「『かも』だっつってんだろ」
かあっと音を立てるように頬を赤くして、ぱくぱくと魚のように口を開閉させるナマエに、漸く尾形の方が優位を取り戻したのか、彼は薄く笑ってナマエの顔を見つめる。ナマエもそれに気付いて彼の顔を見た。星明りを反射して煌めく彼女の琥珀の瞳を見て、笑みを深めた尾形は静かな問い口で口を開いた。
「俺も、一つ聞きてえんだが」
「何?」
穏やかな問い口に、ナマエも平静を取り戻したのか落ち着いた声で小首を傾げる。ナマエの素直な返答に、可笑しそうに息を吐き出しながら、尾形はナマエに触れるように手を伸ばす。その手は空を掴むばかりであったが、尾形は構う事無く言葉を続けた。
「お前は……、嫌だったのか」
「……へ、」
「お前は、俺にああいう事をされて嫌だったのか」
真っ直ぐとナマエの顔を見て、尾形は静かにそう聞いた。聞かれたナマエもそんな事を聞かれるとは思ってもなくて、心臓が跳ねるように高鳴るのを感じる。問うた尾形の方は真剣な顔をしていて、自分も確りと答えなければ、とナマエは必死にあの夜を思い返す。しかし。
「…………わ、分かんない」
出てきた答えはそれしかなかった。困ったように気まずそうな顔で尾形を見つめるナマエに尾形は不満そうな、三白眼でナマエを見た。
「はあ?お前俺だけに色々言わせて自分は可愛く『分かんない』って何だ」
「だ、だって本当に分かんなかったもん……!」
「はあ……、オイ、来い」
尾形の追及に頬を膨らませて抗議するナマエに尾形は尚も不満そうに顔を顰めていたが、不意に何かを思い付いたように口端を持ち上げる。そのままの顔でナマエに対して手招きする尾形に、警戒しながらも馬鹿正直に近付くナマエに彼は更に口端を持ち上げてほくそ笑んだ。
「な、なに……、っ、ん」
それはナマエにとっては突然の事だった。尾形の手の届く範囲までナマエが近付いた瞬間、腕を掴まれて、振り解こうとした。その瞬間にはもう、彼女は唇を奪われていた。それはあっという間の事で、現状を把握して驚いた時には既にナマエは解放されていて、目の前にはナマエの驚愕などどこ吹く風の尾形がいた。
「これで分かるだろ」
僅かに悪戯っぽく笑う尾形に今更ながら心臓が高鳴り出したのを感じて、ナマエはそれを抑えるように自身の胸に手を当てる。答えを促すような尾形の顔に、しかし彼女は首を振った。
「…………わ、分かんない」
「はあ?」
「む、無理だよ!頭の中ぐちゃぐちゃになって、何にも考えられないから、」
許容量以上の感情の揺れ動きに涙すら滲ませて、爆発しそうな心臓を抱えるナマエをこれ以上揶揄うと本気で泣き出しかねないと悟ったのか、尾形は一つ息を吐いて笑う。そのため息にも肩をびくつかせるナマエに頬を緩めると、尾形は彼女に手を差し伸べた。
「まあ、良い。今は見逃してやるよ。……帰るぞ」
「…………うん、あの、でも、」
その手の意味合いに気付いたナマエは恐る恐る彼の手に自身の手を重ねて、それから思い直したように彼の顔を見て、口を開いた。ナマエの言葉に注意を引かれてそちらの方を見た尾形とナマエの視線が絡む。その事にまた頬を赤らめた彼女だったが、確りと尾形の方を見つめたまま言葉を紡ぐ。
「嫌じゃ、無かったから…………」
「…………ああ、そうかい」
一瞬反応できなかった尾形を責めるものなど誰もいまい。何故ならそこは仲間が寝ているところからは少し離れた川辺で、二人の事を照らしている星明りですら、雲に隠れて見えなかったのだから。
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