月明かりの道標

触れられたところが、まだ、熱い気がした。飛蝗が収まって、番屋を出た時、逃げるように背を向ける自分の事を尾形は見ていた、という確信がナマエにはあった。背中に感じる強い視線が恐ろしくて、ナマエはひたすらに走った。呼び止めるような白石の声にも立ち止まる事なく。走って走って、とにかく尾形から離れたかった。また同じ事をされたらと思うとナマエの心臓は締め付けられるように痛んだ。

「……っ、」

どこをどう走ったのか定かではなかったが、振り返っても人の気配はおろか物音一つ聞こえずナマエは安堵したように息を吐いて、草陰に座り込んだ。あれだけ大量にいた蝗はもうどこかに行ってしまったのか、辺りは静寂に包まれている。そしてその静寂がナマエに先程の出来事を思い出させる事は実に簡単であった。

恐る恐る、唇に触れる。当然、尾形にされた事の感触とは違っていた。しかしその感触はナマエの中に如実に残っていて、彼女を混乱させた。何故尾形があんな事をしたのか。どうしてナマエだったのか。そしてあの謝罪の意味は。

尾形の事を自分がどう思っているのか、ナマエには分からなかった。嫌いになれば良いのか、憎めばいいのか、しかし好きになるのは、少し違う気がした。この夜が終われば旅は再開され、尾形とも顔を合わせるというのに、どのような顔をしたら良いのか分からなかった。何事も無かったように振る舞う事など、ナマエには出来そうもなかった。

(どうしたら、良いの)

何度も何度も昂った神経を落ち着かせようとするが、気付けば心臓はまだ緊張した時のようにぎゅう、と痛み、思考は浮ついて纏まらない。胸に手を当てると不規則に弾んでいるような気がして彼女は眉を寄せた。

「ナマエちゃん?」

不意に名を呼ばれてナマエは、はっと顔を上げた。そこにいたのは白石だった。訝しげな顔でこちらを見ている白石がいつの間に自分の傍に来たのか、ナマエは全くと言っていい程気が付かなかった。「カムイの耳」が、聞いて呆れる。

「白石……、どうしたの?」

「え?それはこっちの台詞だぜ?ナマエちゃん急に走ってどっか行っちまうからよ!」

ナマエとしては何でもない風を装ったつもりだったが、場違いな言葉に白石は余計に訝しそうな顔をして彼女を見た。咎められているような気がして視線を逸らすナマエに、白石は「そっち行って良い?」と声をかけた。

「うん……」

一人分の空間を空けて膝を抱えるナマエの隣に、白石は彼女を安心させるように少し微笑んで座った。何から、どこまで、話して良いのか分からず口を噤むナマエに、白石は遠くを見つめるように口を開く。

「何かあったぁ?」

間延びした声は、しかし核心をついていた。ナマエの心臓がどき、と嫌な音を立てる。尾形の熱が、声音が思い出されて、彼女はぎゅう、と服を握った。

「……別に、何も無い、かな」

やっと紡いだ言葉にどれだけの説得力があっただろう。辺りに生えている草を弄ぶ白石はナマエの返答に「そっかぁ、何も無いかあ」と気の無い返事をするだけだった。ああ、でも、一人で抱えるにはこの混乱は大き過ぎる。それなのに言葉が出てこない。ナマエは唇を噛み締めて俯いた。

「あのさ、ナマエちゃん」

不意の真剣な声にナマエはそちらの方を向く。白石は真っ直ぐな瞳でナマエを見ていた。

「俺は別にナマエちゃんが話したくないって言うならそれは全然構わないって思う。でもさ、もし、今、ナマエちゃんがどうしたら良いのか分からないっていうなら、話してくれない?」

「白石……、」

「俺、口は堅いし良い相談相手になるよ?」

へら、と笑った白石はナマエの頭を戯けたように軽く叩くとそれきり、何も言わなかった。ナマエの言葉を急かすでも待つでもないその態度は不思議と彼女の口と心を緩ませた。

「白石はさ、」

「うん」

「どういう時にウチャロヌンヌンしたいって、思う?」

「うん?ウチャロ、何?」

脈絡の無い曖昧なナマエの問いに、白石は困惑の視線を彼女に向ける。しかしナマエも白石の方を見る事が出来ず、ひたすら前を見ながら抱えた膝の上に顎を乗せた。気恥ずかしくってナマエは口付けという言葉を使えなかった。しかし当然白石には通じず、彼女は俯いて補完するように、ぼそ、と「口付け、」と溢した。

「は?口付け?……え、まさか、」

「どういう時?白石はどんな時に誰とそれをしたいって思う?」

驚愕の目でナマエを見る白石から話を逸らすように、彼女は答えを急かす。未だに気遣わしげな顔をする白石であったがそれでもナマエの問いには答えようとしているのか腕を組んで考え始める。うんうんと唸る白石をナマエは祈るように見た。白石の答えが尾形のそれと同じであるとは限らず、むしろ違うであろう事は分かり切っていたが、それでも、白石の答えが彼女に何かしらの標を与えてくれるのではないかと思ったからだ。

「う、うーん……口付け、ねえ……」

「…………」

白石の言葉をただ待つ。ナマエにとってそれは長いような短いような時間だった。白石は迷いながらも息を吸い込んで、彼女の方を見た。

「俺はさ、普通の人間とは違うし参考にはならないかもしれないけどさ……」

囁かれた言葉はナマエにとって、白石らしいと思えるものだった。それでもその答えでは彼女の不安を打ち消すには少し足りないような気がした。

「ん……、そっかぁ……」

「尾形ちゃんとさ、何かあったの?」

「尾形」その言葉一つで、ナマエの身体はびく、と震えた。尾形の名前を聞いただけであの時の混乱が思い出されて。ナマエの確かな恐怖を感じ取ったのか、白石は不穏な顔で彼女の顔を覗き込んだ。

「何かされたのか?嫌な事?言える?」

心配そうな顔がナマエを見て、硬い掌が彼女の肩に躊躇いがちに触れた。何から言って良いのか、何を言って良いのか分からずに押し黙るナマエに白石は何かを感じ取ったのか、表情を硬くして彼女の瞳の奥を見透かす。

「ちょっと俺、尾形殴ってくる」

「え!?あ、白石!」

「許せるわけねえだろ!抵抗出来ない女の子に最低じゃねえか!」

夜の静寂に白石の怒声が響く。ナマエにはそのようなつもりがこれっぽっちも無かった事もあって、彼女は慌てて首を振って立ち上がった白石を押し留める。承服しかねるような様子を見せる白石だったが、ナマエが必死に押し留めたせいか渋々と行った顔でもう一度彼女の隣に腰を落とす。

「本当に良いの?尾形に脅されてるとか……」

「ち、違う……!そんなんじゃないけど、」

「けど、何?」

「顔を合わせるのは、少し怖い……」

拠り所を探すように自分の服の裾を掴むナマエに、白石は苛立ったように鼻を鳴らして、彼女の頭を乱雑に撫でた。

「何があったの?言える範囲で良いから教えてくれ」

肩を抱かれて引き寄せられれば、底冷えの冬の気温が少し暖かくなった気がして、ナマエは精神を落ち着かせるように息を吐いた。

「よく、分からない。急に抱き締められて、気付いたら、ウチャロヌンヌン……されてた」

本当にそれだけしか言う事が無くて彼女は助けを求めるように白石を見つめる。これだけで、白石は分かってくれただろうか、自分と尾形の間にあった一連のいざこざを。そう、祈るような気持ちで。

「……尾形は何て?何か言ってた?」

「……『悪い』、って」

「っはあ?」

聞き捨てならないとでも言うように瞠目する白石にナマエはそわそわと落ち着かない気分になる。また彼が怒って尾形を殴りに行く、と言い出すのが恐ろしかったのだ。自分のせいで物事が大きくなるのは嫌だった。

「きっとさ、尾形は気分が悪くて私を誰かと勘違いしたんだよ……!多分、きっと……何も無かったんだよ……」

ナマエは努めて明るく笑って見せた。自分は大丈夫だと、白石に伝えたかった。これは何ともないただの事故で、大袈裟にする程の事ではないと、完結させてしまいたかった。

「勘違いって……、ナマエちゃんはそれで良いのかよ」

「……え?」

「尾形に勘違いでそういう事されて、挙句に何も無かった事にされてそれで良いのかよ!」

がつん、と殴られたような衝撃だと、ナマエは思った。もっと言うと霧の夜に月明かりがさっと差し込んで進むべき道が見えるような、自身の感情でもやもやとしていたものがすとんと元の場所に落ちて平らかになるような。

はっきりと嫌だ、とナマエは感じた。抱き締められた事も口付けをされた事も、無かった事になんてしたくなかった。たとえ尾形にどんな気があったとしても、自分にとってその行為は大きな意味を持ったのだから。

「やだ……」

「ナマエちゃん?」

「やだ、嫌、無かった事になんかしたくない……!」

伸ばされた白石の手をナマエは強く握った。聞き分けの良い子供でいなければいけないと思っていたはずの自分が、まるで駄々を捏ねる幼子のようだと、ナマエは他人事のように見ていた。

「理由を知りたい。尾形がどうしてあんな事、したのか。なんで、私だったのか……!」

自身の手の内で僅かに白くなる白石の手にナマエは視線を落とす。何が正解でも良かった。たとえ望む答えでなかったとしても、今回だけは、自分の感情に従って行動しないと絶対に後悔すると、ナマエは確信していた。

「尾形は、答えをくれるかな」

「……くれなきゃ、俺が尾形を殴るよ」

苦い顔で笑う白石にナマエは苦笑した。不安な事には変わりはなかったが、白石と話している間に不思議と彼女の乱れた感情は平静を取り戻していた。

「……ナマエちゃんは尾形が、」

「……うん?」

「いや、何でもない。……寒くなーい?」

「大丈夫。……白石、」

「うん?」

「ありがとう」

何となく気恥ずかしさが勝って白石の胸の辺りを見つめて礼を言うナマエに白石は彼女の頭を優しく撫でてその手をぎゅう、と握った。

「尾形が羨ましいぜ」

「……?何の話?」

「何でもねーよ。もっとさ、楽しい話しなあい?ナマエちゃんの好きなものの話とかさ!」

あっけらかんと笑う白石に、ナマエも微笑んだ。

「白石の好きなものも教えて」

その言葉に照れたように笑う白石の存在に、ナマエはひたすらに感謝した。自分を追いかけて来てくれたのが白石で良かったと。

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