未知数の感情

ナマエを腕に抱く尾形は何も言う事はなかった。ただ、ナマエの小さな身体を腕に抱き、その温もりを確かめるように呼吸をしていた。音らしい音も無く、時折杉元たちのいる隣の部屋から僅かに物音がするくらいであった。尾形の腕の中でナマエは息を詰め、ひたすらに身体を小さくしていた。

ナマエには尾形の行動の意味が理解出来なかった。何故抱き寄せられているのか、理由が分からなかった。今まで、彼がナマエに近付いたのには明確な理由があった。暖を取るため、涙を拭うため、その他色々。しかしそこには確かな理由があって、その理由が無くなれば彼はすぐに離れていった。けれど今は。

ナマエには皆目検討がつかなかった。尾形が自分を抱き寄せる理由が。その意味が。

「おがた……」

困惑したナマエの声が静寂の空間に小さく響く。尾形は依然として強く強くナマエの身体を引き寄せて、首筋に顔を埋める。尾形の存外に柔らかい髪がナマエの肩を擽って、場違いな刺激を与えた。ナマエの存在を確かめるかのようなこの行為の応えをナマエは探していた。そして、答え合わせをするかのように彼女は彼の身体に曖昧に添わされていた手を確りとその背に回した。

「……ナマエ、」

尾形が何を言おうとしたのか、ナマエには分からなかった。彼女の名前にどんな感情を籠めたのか。様々な感情の綯い交ぜになった声音は震えてはいなかったはずなのに、ナマエは何故かその声に大きな悲しみを見出してしまった。たとえそれを指摘したところで尾形は決してそれを肯定しないだろうし、実際彼の表情には動揺のさざめき一つ見えなかった。それでも聞こえた気がしたのだ。聞こえないくらいずっと遠くで、「カムイの耳」を持つナマエにしか聞こえない悲しみを吐露する声が。

「尾形……、大丈夫、だよ……」

ナマエはただ、その声に導かれるように本能に従っただけだった。大きな背中を心臓の鼓動と同じ速度で柔らかく撫でる。それはナマエが悲しかった時にエコリアチがよくしてくれたやり方だった。

大丈夫だよと囁いて、背中を優しくゆっくりたたかれたら何となく、心の中の重たいものが少しだけ軽くなる事を彼女は知っていた。

「…………ナマエ、」

尾形の低い声が、鼓膜を刺激してナマエは背筋が震えるような気がして肩を竦めた。尾形の表情を確認しようと彼女は身体を離そうとしたけれど、彼はそれを許さない。ひし、と抱き竦められてナマエはひたすらに尾形に寄り添っていた。

「ここにいるよ」

呼名に応えるようにナマエは尾形の耳許に声を落とす。何度も何度も名前を呼ばれ、その度にナマエは返事をした。存在を確認するようなその行為を尾形とナマエはひたすら繰り返した。

「ナマエ……」

「うん、」

「ナマエ」

「尾形」

耳許に落とされていた声が次第に旋毛や、首筋に落とされるようになる。目許を通り過ぎて、白い頬を伝う。

尾形と額合わせになった時、ナマエは彼の瞳の奥にとても深い感情がある事に気付いた。名前の付けられないその感情を、尾形が制御しきれていない事もまた、どこか他人事のようにみつめていた。

「ナマエ」

熱く熟した視線が灼くようにナマエの視線を絡め取った。その声に返事をしようとした。けれど出来なかった。応えの声ごと、尾形の口内に消えていった。

「……っ!」

咄嗟に逃げようと距離を取ろうとしたナマエを、尾形は引き寄せて離そうとはしなかった。児戯にも等しい触れるだけの口付けは何の前触れも無く離れていく。それでも、ナマエにはとても長い時間のように感じられた。

呆然としているナマエの頬を、尾形の硬い手がなぞろうとする。反射的に顔を背けたナマエに、尾形はその動きを止め、素早く彼女から距離を取った。目線を下げて、彼女とは視線を合わせようとしない尾形が別の生き物に見えて、ナマエは尾形の事を堪らなく怖いと感じた。

「なんで、こんな……っ」

ナマエの唇が戦慄いて声が震えているのは尾形にも伝わっただろう。弁明する気なのか顔を上げた尾形から、身を守るようにナマエが自分の身体を抱けば、彼女の恐怖を感じ取ったのか、尾形は顔を顰めた。二人の間の静寂に、隣の部屋から聞こえる大きな物音が妙に耳につく。

さり、と衣擦れの音がしてびくり、とナマエの肩が大袈裟な程に揺れる。尾形が立ち上がった音だった。先ほどの恐怖が一気に戻って腰が引けるナマエを見て尾形は彼女に手を伸ばそうとして、その手を握り締めて引っ込めた。そして何事も無かったかのように部屋を出て行こうとした。何の弁明も弁解も無く。ナマエはただその背中を呆然と眺めていた。

「…………悪い、」

引き戸の前、こちらを向く事なく溢された小さな謝罪が、一体何に対するものだったのか、分からないまま、ナマエは何となく居た堪れない顔の杉元が部屋を覗くまでずっと、阿呆のように一人で座り込んで考えていた。どうしたら、何事も無かったように振る舞えるのか、そればかり。

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