本質を求めて

杉元とアシパが新たな刺青の囚人を探している間、人質となってしまった谷垣の監視は尾形とナマエの役目となった。ナマエ自身は彼女の目と耳を有効活用させたいと申し出たのだが、尾形の性格諸々を考えると彼女が残っておいた方が余計な諍いを招かないのではないかという結論に落ち着いたからだ。

「アシパ……」

「ナマエ、」

置いていかれる事に思うところがあるのか、やや視線を落とすナマエにアシパも躊躇いがちに曖昧な言葉を投げた。手探りの距離感がもどかしくてアシパは話題を探すように辺りに視線をやる。その視線がある一点で止まった事に気付いたナマエが彼女に倣うように振り返り、その視線の先に食糧庫に陣取った尾形がいる事を捉えた彼女は浅葱鼠の睫毛を伏せてから両方の口端を確りと持ち上げた。

「大丈夫、絶対に何事も無く終わらせよう」

「その……、ナマエ……。私は、」

逡巡するようなアシパの言葉にナマエは小さく首を振ってから、柔らかく微笑む。

「あのね、アシパ。谷垣ニパの疑いが晴れたら聞いて欲しい事があるの」

「……ナマエ、」

ナマエの申し出に目を瞬かせるアシパにナマエは晴れやかな顔をする。

「皆に話さなきゃいけない事だけど、一番にアシパに聞いて欲しい。あなたは私の大切な人だから」

芯のある言葉と共にそっとアシパの肩を押したナマエはアシパに対する彼女の信頼を示すかのように背を向けて尾形の方へと歩いて行く。振り返らない彼女にその信頼を見て取ったアシパはその背中に向けて叫ぶ。

「私もだ!私もナマエに聞いて欲しい事がある!だから必ず帰ってくる!それまでそっちは任せたぞ!」

ナマエは振り返らなかった。それでもアシパは確かに聞いた。「待ってる」というナマエの声を。

***

「……言っとくが、俺はそんなに優しい人間じゃない」

ナマエの足音に顔を上げた尾形は昏い瞳で尾形たちを遠巻きに見るアイヌたちに視線を送った。どうやらナマエがアシパへ贈った言葉が聞こえていたらしい。尾形のその視線に先ほどの彼の無機質で平坦な声を思い出し、ナマエは肩を揺らす。彼女の明確な戸惑いを見て取った尾形はつまらなさそうにナマエから視線を外すと彼女の顔を見ずに口を開いた。

「屋内に入ってろ。お前はアイヌなんだから向こうも無下にはしねえだろ」

拒絶のような(実際それは確かな拒絶であった)言葉にナマエは目を見開いて尾形の顔を見たが、彼と視線は交わらない。その事に彼女は唇を噛み、それでも意を決したように硬い表情で穀物蔵の梯子を上りそっと尾形の隣に腰を下ろした。尾形の無機質な視線がナマエの方を一瞬捉えそしてまた前を向く。自身の方に向けられる事の無い彼の視線に挑戦するかのように彼女は口を開いた。

「……私はずっと優しい誰かに護られてた。護られて、何もして来なかった。だから今、凄く後悔してる。もう、自分だけ安全な場所にいるのは嫌だ。私に出来る事は少ないけど、それでも私に出来る事があるならそこにいたい」

硬くて緊張した声音はしかし真っ直ぐに尾形に向けられていた。ナマエの顔を横目で見た尾形はその横顔の気丈さに唇を緩め、それから僅かに逡巡するように視線を巡らせる。まるで言うべき言葉を探しているようなその仕草にナマエは琥珀の瞳をゆっくりと動かし尾形を見た。暫くの間、二人の視線が絡まる事は無かった。しかし彼女の目が彼の言葉を促すように二度瞬いたのを合図に尾形は迷うように口を開いた。

「……実際のところ、俺の『助ける手段』は少ない。お前が何を買い被っているのかは知らねえが、俺に期待するんじゃねえ」

突き放したような言葉にナマエは僅かに目を伏せ唇を引き結んで、しかし首を振る。それから薄氷を踏むように恐る恐る、彼女は尾形を見つめながら言葉を発した。

「私ね、さっき尾形の事少し怖いって思った。あなたがここのコタンの人たちに酷い事するんじゃないかって。……でもあなたは銃を置いてくれた。話し合おうとしてくれたよね。あなたは自分の事を優しくないって言うけど、私はそうは思わないよ。……だって、尾形は私の事何度も、」

ぎゅう、とナマエの胸元で握り締められた彼女の手が白く変わる。今にも泣きそうなくらいに歪められたナマエの顔を尾形は言葉無く見つめる。尚も口を開こうとするナマエであったが、しかしそれは尾形に制されてしまう。表情を凍りつかせるナマエに尾形は目を伏せて静かに息を吐いた。

「変わった奴だな」

呆れたように仕方無さそうに、尾形は瞳を持ち上げてナマエを見つめた。その顔は確かに笑んでいてナマエは目を丸くしてから何を言われたのか理解したのだろう、白い頬をじわじわと赤らめ花が綻ぶように微笑んだ。しかしすぐに落ち込んだように目を伏せてしまう。

「あなたの事を誤解してた。勝手に怖い人だと決め付けて、」

項垂れるナマエに尾形は苦笑するように息を吐く。それから外套の隙間から手を差し出して、ナマエの頭を乱暴に撫でた。

「別に気にしてない。それが俺の本質だ。何度同じ事を繰り返したって俺は行使出来る実力は行使する。やらなきゃやられる事の方が多い」

「……うん。それでも、尾形にはそうして欲しくない……。危険な目に遭って欲しくないよ」

駄々を捏ねるように俯くナマエに尾形は目を細めてから、その視線を右下に遣った。何と言って良いのか判別がつかなかったのだ。彼の中にかつてこれ程までに純粋に己を案じる人間は存在しなかった。それは尾形にとって奇妙な感覚であった。羽毛で皮膚を擽られているような感覚と少しの鬱陶しさ。悪い気分ではないが、かと言って手放しで喜べる訳でもない。初めて感じるその感情に、彼は名を付けられずにいた。

「……変わった奴だな」

ナマエの顔を見る事も出来ず、何とか絞り出したその音は酷く小さくて。それなのにナマエは悲しそうに微笑んで尾形との距離を詰めた。

「誰にも傷付いて欲しく無いよ。もう、喪う事も、喪った人を見る事もしたくないもの」

何でもないように呟いたナマエは気を取り直したように明るい顔を作った。

「だからさ、谷垣ニパの事も助けよう。谷垣ニパはインカマッとチカパシの家族なんだって」

羨ましいね、家族だって、と目を細めて唇を弓形に持ち上げたナマエの顔を尾形は見て、そして僅かに笑みを作って静かに肩を竦めた。約束の期限まであと三日である。

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