柔らかな、夢を見た。
それはあり得ない夢だった。父がいて、母がいて、兄と同じように大切に育てられて、皆に受け入れられて、それはとても幸せな夢だった。金塊なんて大人たちのただの寝物語の中の壮大な冒険話で、私は母の手伝いをして、兄は父と共に狩りをする。そうやって平凡に暮らしていつか心から愛する人を見付けてまた、私たちの続きを描く子どもを授かる、それだけで良かったのに。
もう、それは叶わない夢の中の話なのかな。
***
束の間の微睡から目覚めたナマエだったが自身を包み込むような温もりがあまりに心地良くて暫く目を開ける事が出来ずにいた。温かくて安心できて少し硬いけれどそれすらもナマエを安堵させるその温もりの持ち主を、ナマエは知っているような気がしたが一体誰だったのか顔までは分からなくて彼女は渋々目を開けた。目を開けてしまったら、仲間に言わなければならない事があると憂鬱な気分になりながら。
「…………へ、」
「……ああ、起きたのか」
しかしゆっくりと目を開けたその先に、至近距離にまさか尾形の顔があろうと誰が予測したか。少なくともナマエはしなかった。あまりに驚いて何も言えずにいる彼女に尾形は何を勘違いしたのか更に顔を近付けてナマエの顔を覗き込む。
「気分でも悪いのか」
「え、う、ううん……、だ、い、じょうぶ……です、」
「はっ、いきなり改まるんじゃねえ。気持ち悪い」
唐突なナマエの丁寧語に顔を顰める尾形はしかし彼女の顔を流し見る。その視線に身構えるナマエの顔に手を伸ばした尾形はそっと彼女の眦を拭った。
「え、あ……え?」
「ガキじゃあるまいし、悪夢でピィピィ泣くんじゃねえよ」
「え!な、泣いてた……!?私、何か言ってた!?」
かあっ、と顔を赤らめるナマエに尾形は呆れたようにため息を吐く。
「さあな。……泣くくらい嫌な夢だったんなら忘れろ。……その方が早い」
そっぽを向いた尾形にナマエはそれ以上何も言えなかった。尾形の醸し出す雰囲気がそれ以上彼女に言葉を紡ぐ事を憚らせた。何も言えず目許を擦るナマエを目の端に映した尾形はそれで良いという風に鼻を鳴らす。注視されている事に気まずさを感じたのか身動ぎするナマエの頬が僅かに赤い事に尾形が気付いたのかは定かではない。
***
第七師団の予想を裏切ろうと一行は釧路に向かうために足を速めていた。全員疲れ切っていたが、痛む身体に鞭打ってただひたすらに足を動かす。ナマエも負傷した杉元に治療を施しつつ、必死に足を動かしていた。しかし一行の間に流れる雰囲気は酷く重苦しいものであった。尾形を除く全員が時折意味ありげな視線をナマエに向けて投げて寄越す。そしてナマエ自身その事に気付いていた。もっとも、気付いていたからと言って彼女はどうしたら良いのか皆目見当が付かなかったのだが。
(…………、)
気まずくて重い沈黙の中、逃げるように考えるのは兄の事ばかりであった。別々に育てられたとは言えコタンにいた時からエコリアチはナマエの兄として、家族として彼女を守ってくれた。彼さえいれば、ナマエは他に何もいらなかった。文字通りナマエの世界には、エコリアチしかいなかったのだ。そしてその唯一の肉親を、救える方法をナマエは知っていた。
(簡単な事。君が杉元の許にある刺青人皮、その全てを写し取って来るだけで良い)
脳裏に浮かぶのは鶴見の声。全てを赦してしまうような響きを持ったその声音は、ナマエの中に根を張り時として判断力を鈍らせた。彼女の中の天秤は今、確実に揺れていた。どちらに傾いてもおかしくないそれを持て余すように、ナマエはゆっくりと瞳を巡らせて、自分の少し前を歩く杉元の荷を見た。
(あの中に……)
自然と喉が動き、手が伸びそうになる。その細くて白い指が杉元の荷物に掛かりそうになった時だった。
「オイ、少し休憩だ」
「っ!」
ぱっとナマエは手を引く。唐突に先を歩いていた尾形が振り返り、休憩を進言したのだ。全員が特に反対するでもなく頷いたのを皮切りに一行は座り込んだ。ナマエを除いては。そして、ばくばくと跳ねる心臓を押さえるように胸元で手を握り締めるナマエを尾形の昏い目が見つめていた。
「……少しこの辺を見回って来る。ナマエ、手伝え」
「え!?……あ!ちょっと、尾形っ!?」
思いもよらない尾形の誘いに肩を揺らすナマエに、尾形は有無を言わせないと言うように擦れ違いざまに彼女の腕を掴み引き摺るように歩いて行く。呆気に取られたように顔を見合わせている仲間を尻目にナマエは引き摺られながら歩く。仲間たちの姿が見えなくなってもまだ歩き続ける尾形に、いよいよナマエは不安を零そうと口を開こうとした。
「おがた、っ!?わ、っ……」
しかしその言葉は封じられる。尾形が立ち止まったせいでナマエがその背中に盛大にぶつかったからだ。鼻を打ったのか僅かに涙目で顔を押さえるナマエを尾形は感情の抜け落ちた瞳で見た。
「あの、尾形……?どうしたの、」
怖々と窺うように尾形の顔を見つめるナマエに彼は愉快そうに笑った。その微笑みの空恐ろしさにナマエは半歩後退る。
「お前……、鶴見中尉に何か言われたな?」
どき、と心臓が耳許で音を立てたような気がしてナマエは目を見開いた。咄嗟に言葉が出ずに金魚のように何度も口を開閉させてしまう。その様子が尾形の言葉を肯定していて彼は我が意を得たりとばかりにほくそ笑んだ。
「何を言われた?刺青の皮の写しを持って来れば兄貴を助けてやるとでも言われたか?」
「っ、ち、ちが……!」
弾かれたように首を振るナマエであったが説得力は無く、尾形は彼女の無駄な努力を嘲笑うようにナマエの頤を乱暴に持ち上げると顔を近付ける。
「あいつらには、言えねえよなあ?一人で全部持ち逃げか?」
にやにやと面白そうにナマエの目を覗き込む尾形に彼女は顔を歪めて勢いよく頭を振る。
「違う……!そんなんじゃなくてっ!」
「何が違うんだ?俺が声掛けなきゃ、お前刺青に手を出してたよな?」
「……っ」
何も言えないナマエの顎から首筋にかけてを撫でるようになぞった尾形は、しかし退屈そうに息を吐くとナマエから離れる。それから目を細めて俯くナマエを見やって口を開いた。
「……協力、してやっても良いぜ」
「……え?」
呆気に取られたように目を瞬かせるナマエに尾形は口端を持ち上げて片眉を器用に跳ね上げた。まるで蛇が人類の祖の妻を誘惑するかのように狡猾にしかし蠱惑的に彼女を誘う尾形にナマエは唇を震わせる。
「お前が刺青人皮を奪うのを手伝ってやっても良い。分け前は半分でどうだ?」
「尾形、何を言ってるの……!?」
「何って、簡単な事だよ。お前はあいつらを裏切る気なんだろ?その協力をしてやるって言ってるんだ」
「裏切る」というその単語にナマエは顔を蒼白にさせて首を振る。必死に声を震わせて尾形の言葉を否定するナマエの声が辺りに響いた。
「違う……!裏切るなんて、そんな事しない!私はそんなつもりじゃなくて……!」
琥珀色の瞳を囲う眦から透明な雫がぽろぽろと零れる。ぎゅう、と目を瞑ってその雫を払い落としたナマエは唇を噛み締めてから、ゆっくりと目を開けた。その瞳には頑なさしかなかった。彼女は知っていた。尾形に何を言っても自分の疑いが晴れる事は無いという事を。
「…………私は何もしないよ。……皆の所に帰るね。誰にも、何も言わないから、あなたも何も言わないで」
震える声を隠すように無理矢理微笑んだナマエは尾形に背を向けて歩き出す。残された尾形は面白くなさそうな顔で離れて行く彼女の背中を見つめていた。
「つまんねえ」
口の中で一言、そう呟きながら。
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