飛蝗に追い立てられるように逃げるナマエであったがいよいよ追い詰められて途方に暮れていた。逃げる場所が見つからないのだ。湖とは反対側に逃げてしまったため今更そちら側に逃げる事も出来ない。せめてどこか隠れられる樹洞でもないかと彼女が辺りを見回した時だった。
「オイ!ナマエか!?」
不意に懐かしい声がして振り返ればそこには息を切らして駆けてくるキロランケの姿があった。
「キロランケニシパ!」
「話は後だ!あっちに番屋があるのを見つけた!とにかくそこまで行くぞ!」
キロランケの大きな手に引かれて慌てて頷いたナマエは彼について行く。すぐに目的地である番屋は見つかり、ナマエは漸く得られた安息地に少しだけ眉を下げた。
「イテッ!耳噛まれた!」
「キ、キロランケニシパ!大丈夫!?」
しかし二人が予想しなかった事は番屋には既に先客がいた事だろうか。そこには既に杉元たちがいたのだ、ラッコ鍋を囲んで。
既に番屋の中は熱気で溢れていて、何となく感じる浮ついた違和感にナマエは首を傾げる。全員の視線が熱に浮かされているような気がしてならないのだ。居心地の悪さを感じて視線を彷徨わせるナマエであったがある一点でそれは止まる。
「尾形!?どうしたの……?」
そこにはぐったりと壁に凭れかかるようにして目を閉じる尾形の姿があったのだ。普段見慣れない彼の姿に慌ててナマエは尾形の許に寄って、傍らに膝を突く。少し迷ったように手を伸ばし、引っ込めをした後、彼女は意を決したように尾形の額に触れる。
「あ、あつ……、調子が悪いのかな?」
「ああ……、何かクラクラするって言ってたな……」
ぼんやりとした白石の声に疑問が湧くもそれよりも目を閉じたままの尾形の事が心配で、ナマエは控えめに尾形の身体を揺さぶる。
「尾形……、」
その声が届いたのか閉じられていた尾形の目蓋が痙攣するように震えて、ゆっくりと暗い瞳がナマエを映す。尾形はナマエを認識したのか、彼女がここにいる事にやや不思議そうな顔をしたがそれよりも目蓋を開けている事の方が億劫だったのか力無く再び目蓋を下ろす。
「うーん……、熱っぽいし少し横になってた方が良いかな?」
尾形の額に手を当てながらその体温を確認するナマエはきょろきょろと辺りを見回して自身のいる部屋の隣の部屋に繋がる戸を見付けて顔を明るくさせる。
「隣にもう一つ部屋があるみたいだし、少し尾形を休ませるね。ほら、尾形行こう」
穏やかで柔らかいナマエの声に壁に凭れ掛かっていた尾形は薄らと目を開き素直に頷く。その殊勝さが可笑しかったのかくすくすと笑ったナマエは尾形に近寄って彼の身体を支えるように肩を貸した。
「立てる?無理しないで良いよ」
優しげな声に甘えるようにナマエの肩に頭を乗せた尾形の背を小さな彼女の手が優しく撫でる。自分より大きな図体の尾形を支え、それでも何も言わず慈しむような瞳で尾形を見たナマエは杉元たちに挨拶するようにきゅう、と微笑んでその場を後にした。
(かわいい……)
彼らがそう思っている事も知らずに。
***
「尾形……、大丈夫?ほら、ここなら少し、落ち着けるから……」
自分より大きな尾形の身体を何とか支えながら隣の部屋に移動したナマエはゆっくりと彼を床に座らせると壁に凭せ掛ける。それから自身のアットゥシを脱ぐと手早く畳んで簡易の枕を作り、そこに彼を横たえた。
飛蝗のせいで外の井戸が使えず、仕方なく自身の水袋の水で手拭いを湿らせたナマエはそっと尾形に近付く。
「温いけど、無いよりマシかな?熱っぽいし、苦しいようなら少し服を緩める?」
尾形の額に濡れた手拭いを置き、優しく静かな声でナマエが問えば彼は薄らと目を開いた。まだ覚醒していないのかぼんやりとしたその瞳がナマエを映す。
「私が分かる?……まだ苦しいかな」
覗き込むナマエに僅かに頷いた尾形はまた目を閉じて浅い息を吐き出す。それから苦しそうに顔を歪めて首元の釦に手をやった。しかし力が入らないのかその指は釦の上を上滑りしていく。
「外そうか?」
「ん……、頼む……」
見かねたナマエが声をかければ尾形は力無く頷いて釦から手を外した。ナマエの白くて細い指が釦にかかってゆっくりとそれを外していく。二つ程それを外してからナマエは尾形の首筋に自分の手を置いた。首の血管は酷く早く脈打っていて、尾形の体温をその熱さを彼女に感じさせた。
「あつ……、身体に熱が篭ってるのかな……。水、飲める?」
自身の水袋を手に、ナマエは尾形の後頚部を支えて僅かに彼の上体を起こす。しかし彼を支えながら水を飲ませるのは難しいと分かったのか僅かに迷った挙句に自身の正座した腿の上にその頭を乗せる。
「咽ないように気を付けてね」
水袋に口を付けた尾形の喉が上下するのを確認して、安堵の息を吐くナマエは手布を取り出して尾形の口の端から零れ落ちた雫をそっと拭った。水分を摂取した事で少しばかり覚醒したのか尾形は覚束ないながらも目を開いてその瞳にナマエの顔を映した。
「私が分かる?」
ひっそりとした柔らかい声に尾形は気持ち良さそうに目を細めて小さく頷く。それからぼんやりと輪郭の曖昧な声でナマエ、と彼女の名前を呼んだ。
「うん」
「悪い……、面倒掛けた」
「大丈夫。どうしたの?気分が悪くなった?」
首を傾げるナマエに尾形は記憶を手繰るように目蓋を下ろすもすぐに顔を顰めて目蓋を持ち上げた。
「分からねえ……、急に眩暈がして……」
「あ、まだ無理しない方が……」
煩わしそうにナマエの膝から身体を起こす尾形にナマエはにじり寄って彼の身体にその身を寄せる。少女と女の中間にある柔らかいその身体の感触に尾形が目を細めるのにも気付かずに。
「ね、まだ寝てよう?眩暈とか、甘く見たら駄目なんだよ」
尾形の顔を見上げて、熱を測るように彼の額に手を置くナマエはアットゥシを脱いだ分身体の稜線が浮き彫りになって彼女の体温を如実に尾形に伝える。己を見つめる尾形の強い視線に気付いたのか首を傾げ、人懐こそうにへら、と顔を緩ませるナマエに尾形は喉を上下させて、それから。
「あ、あの……お、がた……?」
手首を掴まれて引き寄せられ、尾形の熱っぽい瞳に驚くナマエの顔が鮮明に映る。引き締まったその身体からまだ火照りが取れていないのが分かって、まるでその熱が掴まれたところから移っていくようにナマエの心臓は早鐘を打ち始めた。
「気分悪いなら、寝てないとだめだよ……」
取り繕ったようなナマエの声が二人の間を滑って消えていく。相変わらず尾形は何も言う事無く、ただナマエの顔を見つめていた。尾形に握られたナマエの手首から伝わる彼の体温は酷く熱くて彼女はその熱さにすら胸を高鳴らせる。
「あ、あの……尾形、えっと、」
自身と彼の間に漂うただならぬ雰囲気におろおろとナマエがまごついていた時だった。
「 」
「……え?」
何事か尾形が呟いたのをナマエは感じた。だが不思議な事にあれ程耳の良いはずのナマエは彼の言葉を聞き逃してしまった。まるで尾形の声を掻き消すように一瞬周囲の雑音が彼女を取り巻いたのだ。反応も出来ずただ口籠もるナマエに焦れたのか尾形は握った彼女の腕を強く引く。
気付いた時にはナマエは熱い腕の中にいた。強く抱き竦められて、背中に尾形の掌が添えられているのが分かって彼女の心臓はこれ以上ない程に早鐘を打つ。今までに幾度か尾形と触れ合ってきてそれでも、これ程までに熱い抱擁を彼女は知らなかった。
「尾形……、あの、こんな……」
戸惑うように尾形の胸を押して離れようとするナマエを逃さないとでも言うように尾形は彼女を抱く力を強める。静かな、それでいて熱い吐息がナマエの剥き出しの首筋に当たって、慄く彼女の身体の震えすら飲み込むように尾形の身体はナマエを包み込む。
「っ、駄目だよ……!杉元たちが隣にっ……」
強い恥じらいを声に滲ませて尚も尾形から逃れようとするナマエだったがぴた、と動きを止める。肩口の吐息が震えていた。
「行くな……」
ぽつりと呟かれた寂しげなその声に、ナマエは何も言えなかった。何も言えなくて、その声に滲む悲しみにただ震える手を伸ばした。大きな背中に腕を回し、そっと彼の胸に頭を凭せ掛けて尾形にだけ聞こえるように囁く。
「ごめん……、どこにも、いかないよ」
その囁きに呼応するように強くなる束縛にナマエはそっと尾形の背をなぞった。自身の知らない彼の悲しみを見付けるように。
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