疑念は踊る

一晩中白石と他愛も無い話をしていたナマエであったが、明け方気付いたら僅かに微睡んでいたようであった。覚醒には一歩遠く、しかし熟睡には程遠い中途半端な状態で、ナマエは夢を見た。何の夢かは分からない、それでもあたたかな陽だまりを抱えているようなその夢に、彼女が僅かに頬を緩めた事は、白石だけが知っていた。

「何の夢、見てたの?」

「……ゆめ、?」

ほんの四半刻も経たずにゆっくりと目蓋を持ち上げたナマエの顔を覗き込みながら、密やかにそう聞いた白石にナマエはまだ覚醒に至っていない蕩けた目を何度か瞬かせて、それから記憶を手繰るように宙を見た。しかし何も思い当たる事が無かったのか、或いは本当の事を言うつもりも無かったのか、曖昧な表情を浮かべて微笑んだ。

「分かんない。覚えてないや」

「そっかあ。でも良い夢だったみたいで良かったね」

「良い夢?」

「ナマエちゃん笑ってたからさ」

白石の言葉にぱちりと目を大きく開いたナマエだったがこくり、と頷いた。そして少しだけ考えて「家族の夢だったかも、」と小さく言葉を紡いだ。白石もそれ以上追及する気も無く、曖昧に頷いてそっとナマエの頭を撫でた。

「行こっか。皆と合流しねえと」

立ち上がり、荷物を纏める白石にナマエは神妙な顔で頷いた。その顔に浮かぶ強張りに白石は彼女に気付かれないようにため息を吐いた。彼女に対してではない、彼女にこのような顔をさせる男に対してだ。

「もし怖かったらさ、俺の背中に隠れてなよ」

「……怖く、ないよ。けど、ありがとう」

「何なら手でも握っちゃうゥ?」

「調子乗りすぎ!」

ふざけた様にナマエの手を取ろうとする白石に頬を膨らませた彼女であったが、途端に堪え切れなくなったのか噴き出して笑う。白石もその顔に安堵したように微笑んで今度こそ、座っていたナマエの手を引いて立ち上がらせたのだった。

***

どうやら飛蝗によって一行が分断されている間に各方面でかなりの歪みが生まれていたらしい。ナマエと尾形の間の些細ないざこざよりももっと明白で重大で、事によっては命に係わるような。

「キロランケニパがアチャを殺したのか?」

アシパの言葉に騒然となる場に、ナマエも息をする事を忘れていた。たとえ親友の言葉だとしても、信じる事は到底出来なかった。その発言は荒唐無稽だと、確証も無く言いたかった。

(だってキロランケニパは、)

脳裏に過ぎる在りし日がナマエに重く圧し掛かる。そっと額のマタンプに触れるナマエに気付く者はいない。

「証拠は、馬券に付いた指紋です」

アシパの問いに追随するようにインカマッは静かに「その結論」への道筋を説明していく。彼女の言葉は疑いようのない物のように聞こえて、ナマエはぎゅう、と心臓を掴まれたような気分になる。耳を塞ぎたくなるような気分だった。大切な人が突然に遠く離れてしまっていく、そんな恐怖がナマエの足元の地面を揺らがせた気がした。

「……待て」

不意に低い声がインカマッの言葉を制す。ナマエの肩が揺れた事に気付いたのか、白石がそっと彼女の背を擦る。声の主はそれに気付いたのかどうか定かではないが、一瞬不自然に間を置いた。

「……その女、鶴見中尉と繋がってる」

抜かりなく銃口をインカマッに突き付けながら、声の主、尾形は口端を持ち上げる。インカマッを護るように彼女と尾形の間に立つ谷垣を、しかし尾形は冷たい目で見つめた。

「谷垣源次郎……色仕掛けにでも、やられたのか?」

「何を根拠に彼女が怪しいと!?それに鶴見中尉と繋がっているというなら、ナマエだって一緒だ!」

「っ!」

唐突に出された自身の名にナマエの心臓は大きく跳ねる。ナマエは話す機会を逸していた。アシパと尾形には先だって話してはいたものの、それは後の面々には未だ話していない事だった。谷垣の言う可能性を、ナマエは未だ自ら否定していなかった。

「鶴見中尉の許には、ナマエの兄がいるだろう!鶴見中尉なら、あの男を通してナマエを良いように扱える!」

辺りが水を打ったように静かなのは誰も何も、言えないからなのだとナマエは思っていた。アシパや尾形はともかくとして、杉元たちはナマエの決断をまだ聞いていない。だから彼女は怖かった。彼らがどんな目で自分を見ているのか。しかし何か弁解しようとして、彼女が顔を上げるよりも先に。

「下衆が……」

それは怒りのような、否、もっとどろどろとした感情の混ざった声のようにナマエには聞こえた。それ程、低い、冷たい声だった。

「己の女可愛さに、幼気な少女を売る気か?見下げ果てた根性だな、谷垣よォ」

至極可笑しそうに言葉を発する尾形の鋭く光る眼は、しかし口調に反して殺意を隠しもしていなかった。このままでは確実に誰かが怪我をしそうで、咄嗟にナマエは尾形の構える銃口の先に飛び出していた。

「あ、あの、尾形、谷垣ニパの言ってる事は嘘じゃないよ。だから、あの、兄さんの事は……全部本当で、疑われても、しょうがないって言うか……だから、別に、」

勢いだけで言いたい事も分からずに、項垂れて力無く肩を落とすナマエに、尾形は気勢を削がれたのか視線を彼女から外す。それによって少しばかり平静を取り戻したのだろう、銃を収めて、言い訳のように呟いた。

「……お前は決めたんだろうが。簡単に兄貴を救える方法を蹴って、こっち側に付くって。疑われる筋合いなんざ、」

「でも、未だ皆には言ってないから。……だから、聞いて欲しい」

緊張に唇を引き結ぶナマエの言葉に居心地の悪そうに谷垣が頷く。彼の同意を皮切りに他の面子も大なり小なり緊張した面持ちで頷いた。沢山の瞳に射抜かれている事を居心地悪そうに一度大きく呼吸をするナマエだったが不意に右手にあたたかな感触を感じてそちらを見る。

「大丈夫だ。何があっても私はナマエを信じているから」

親友のその言葉に頷いたナマエは、もう一度大きく息を吸って、そして、網走から今までの事を話し始めるのだった。

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