見えなくて、聞こえない

杉元たちが土方と今後の事について話し合っている間、ナマエは少し離れたところでぼんやりとしていた。と言うより先ほどの事が頭をぐるぐると巡って離れなかった。

尾形があれ程に感情を露にするところを、ナマエは見たことが無かった。とは言ってもそれ程長い付き合いではないのだからもしかしたら彼は案外激情家なのかも知れない。それでもすこし、否、かなり驚いてしまったのは事実だ。

しかし考えても考えても分からない。どうして尾形があんなに激高したのか。確かに自分のした事は無鉄砲で向こう見ずな行動だったとは思うがあれで怒られるのであれば杉元なんか幾ら怒られたって足りないだろう。

(納得いかない……)

首を捻りながら、ふと、視線を他所に向ければそこには先ほどまで敵対していた(とは言ってもナマエは直接彼に何かされた訳でもなく、特に感慨も何も湧かない)都丹庵士がいた。手持無沙汰に彼をじっと、見つめて見ても当然都丹はこちらを見ることは無い。少しばかり興味が湧いて、ナマエはゆっくりと都丹に近付いた。

「……何だ?アイヌの娘」

「……!分かるの?」

まだ都丹の半径3メートルに近付くよりも先に声を掛けられてナマエは目を丸くする。その余りの素直な感嘆に都丹は可笑しさを隠そうともせず喉の奥で笑った。

「足音は一人一人違う。お前ともう一人のアイヌの娘でも当然な。例えば俺はあそこにいる人間が誰か、そしてどの位置にいるかだって分かる」

「凄い……!私も耳は良いって言われるけど、そこまでは出来ないや」

おずおずとまだ僅かな恐怖を孕みながらも都丹に近付いたナマエは好奇心を隠し切れないように都丹の様子を窺う。隠せないそわそわとしたナマエの気配に都丹は呆れたようにそちらに顔を向ける。途端にびくついた気配に彼が笑えばナマエも少し頬を緩めた。

「お前も耳が良いのか?」

「うん、生まれつき。都丹ニパは?」

「俺は……、必要に迫られて、だ」

都丹の苦々しい言葉にはっとナマエは顔を歪めた。

「ご、ごめんなさい。嫌な事、聞いてしまって……」

「いや……、だからと言って俺たちがした事は変わらん」

目を細めた都丹に、ナマエは少し視線を落とす。その顔は困っているような、苦しんでいるような顔であったが都丹には当然その顔の造形は思い描けない。しかし、だとしても彼女の雰囲気は都丹に鋭敏に伝わってきた。

「私ね、目も良く見えるの。コタンではカムイの目、カムイの耳って言われてた」

「へえ、そりゃ羨ましい事だ」

都丹の気の無い返事にもナマエは息を吐いて笑う。よく笑う娘だと、都丹は場違いにそう思った。きっと幸せな世界で育った、自分とは対極にある存在なのだろうと。だから、何の躊躇いも無く、己のような男に気を許せるのだろうと。

「でも見えてても聞こえてても何も分からないんだ。一緒にいた仲間が何を考えてるのか全然分からないの」

はあ、とため息を吐くナマエに都丹は少し考えを巡らせて、それから思い当たった一連の音に頬を持ち上げた。

「あれか?銃を持っていた男の事だろう」

「……うん、そうだね」

もっと恥じ入るのかと思いきや、少女が存外あっさりと都丹の追究を認めた事に彼は拍子抜けした。都丹自身会ったばかりのアイヌの少女の悩み相談など更々聞く気は無かったが一つだけ、所見を述べる事くらいはしてやろうと口を開く。

「……あの時、あの男の声音に混ざっていたのは多大な怒りと、それから安堵だった」

そして都丹はナマエの返事を待たずに立ち上がってまるで見えているかのように真っ直ぐに、土方の許へと歩いて行った。後に残された少女の足音が追いかけて来ないところを見ると、相当堪えているのか、或いは。そこまで考えてから都丹は近年頻繁に感じていた憤怒の感情が珍しく湧き起こらない事に、気分を良くした。

***

根室で宇佐美からの報告を聞いていた時、エコリアチが急に声を上げるものだから全員がそちらに目を向ける。彼は黒灰色の瞳を鋭く光らせ、宇佐美を睨んでいた。

「本当に、杉元たちは屈斜路湖に?ナマエは?ナマエの事は何か聞いていませんか?」

「おい、エコリアチ!後にしろ!」

「俺はナマエのために、師団に与すると決めたんだ。ナマエのためにならないなら、協力する意味が無い」

強い光を持った瞳が、エコリアチを嗜めた鯉登を射抜く。鯉登も負けじと彼を睨み返した。

ぎりぎりと睨み合うエコリアチと鯉登。周囲はまた始まったと言わんばかりに顔を見合わせて肩を竦め合う。結局月島がエコリアチを無理矢理外に放り出すまで二人の睨み合いは続いたのだった。

***

北見で突然ナマエたちが連れて来られた建物には廣瀬寫真館とあったが、アイヌであるナマエにはその看板を読む事は出来ず彼女はきょろきょろと興味深そうに部屋の中を見回していた。

「何をするところなの?」

「ここは写真を撮るところさ。アシパさんの写真をフチに送ってやろうと思ってね」

杉元の言葉に顔を明るくするアシパとナマエに、杉元も頬を緩ませる。土方の信頼のおける写真師だという男の指示の下、次々と写真を撮っていく一行をナマエはきらきらとした目で見ていく。アイヌ全般に言える事かも知れないが、彼女も例に漏れず新しいものは好きだった。

(……あ、)

そして少し離れたところで窓の外を見ている尾形に気付いた。彼は楽しげな雰囲気など興味も無いと言った風に冷めた顔で窓からの景色を眺めている。

(今なら、)

少しだけ震えそうになる手を握って、ナマエは尾形に一歩踏み出した。ゆっくりと尾形の方へ近付くナマエにいつ気付いたのだろうか、尾形は振り返って、気配の主がナマエであるという事に僅かに驚いたようだった。

「あ、あの、」

覚悟していたよりも早く尾形に気付かれてしまった事でナマエも焦ってしまい二人の間に微妙に気まずい沈黙が生まれる。それでも先に言いたい事を用意していたナマエは思い切って口を開く。

「尾形は、写真撮らないの?」

遠慮がちに上目で尾形を見つめるナマエに尾形は気の無い表情で鼻を鳴らす。

「別に、興味無い」

「……そう」

沈黙が落ちてしまい居た堪れなさにナマエは俯く。前はこんな沈黙何とも思わなかったのに、そう彼女が唇を噛んだ時だった。

「お前は?撮らねえのか」

窓枠に身体を預けこちらを見ようともしなかったが、尾形の確かな反応にナマエはほっとしたように首を振る。

「ちょっと、恥ずかしい、かな」

「記念だろ。撮っとけよ」

笑うように息を吐いた尾形にナマエがもう一つ、声を掛けようとした時だった。ふと、向こうの輪の中心にいたアシパに名前を呼ばれる。ナマエがそちらを向けばアシパは尾形とナマエを呼んでいるようであった。

「後は尾形とナマエだけだぞ。せっかくだ、一緒に撮ったらどうだ?」

「え!アシパ!?」

咄嗟の事で言葉が浮かばないナマエだったが、不意に横を尾形が通り抜けるのを感じる。

「ああ、偶には悪くねえかもな」

先ほどナマエに与えた言葉とは正反対の事を口にする尾形に目を白黒させるナマエに尾形は焦れたようにナマエを顎で呼ぶ。アシパもナマエの手を引いて椅子に座らせて、あれよあれよという間にナマエと尾形は並んで被写体となっていた。

「それでは撮りますよ。6秒間動かないで」

椅子に座らされたナマエの横に立つ尾形の表情はナマエからは見えない。しかし、それは突然だった。

「……!」

椅子の肘置きに置かれたナマエの手に、静かに尾形の手が乗せられる。それはきっと尾形の身体の影に隠れて周囲には見えなかっただろう。それでもその熱をナマエは確かに感じていて。動くなと言われた6秒間が酷く長く感じられた。どきどきと心臓が高鳴って、自分がどんな顔をしているのかも分からない。ああ、もう駄目だ。立ち上がってしまいそうになった時。

「はい、宜しいですよ」

写真師の声と共にその温もりは離れて行く。あの6秒間が嘘のように、そこには何も残らなかった。ぎゅう、と自分の手を握るナマエはきっと知らなかっただろう。写真に写る尾形の顔が酷く穏やかだった事など。だってその写真はナマエの目に映る前に尾形の懐の内に収められる事となったのだから。

コメント