インカラマッとチカパシから谷垣の危機を聞いたナマエたちは二手に分かれて谷垣と村田銃を持った男を探す事となった。
杉元とアシリパ、尾形とナマエの組み合わせで一行は二分され、ナマエは聞こえるかも分からない音を手繰ろうと耳をそばだてながら尾形の背中を追った。
「何か聞こえるか」
「誰かいるのは確か。でも、遠過ぎて誰かは分からない。逃げるような乱れた足音だから谷垣ニシパかも知れないし、インカラマッの言ってた人かも知れない」
空気に混ざる僅かな音の揺らぎを感じるように「そちら」の方に耳を傾けるナマエに尾形は内心で舌を巻いた。五感において人並み以上を自負している尾形でさえ何も感じ取れない、凡そ常人には聞き取ることなど不可能であるその音をナマエは確かに聞き取っていると言うのだから。
「確かなのか」
「あっちの方。追っ手の人たちの足音も聞こえるから間違いない。逃げてる足音が谷垣ニシパだったらその人たちに捕まる前に私たちで見つけないと」
いつもの柔らかな表情とは打って変わって鋭い、凛々しさすら感じさせる表情でナマエはある一点を指差した。一瞬その方向に目をやった尾形であったが人影など一つも見えなかった。その事に目を細めてから尾形はナマエには見えない角度で苦笑した。かつての彼であればまずナマエの言う事など信じようとはしなかったであろう。彼女の言葉しか根拠のない事実など。しかし今、尾形は彼女の言を信じようとしている。彼女の、ナマエの指差した先にもう一度視線を向け、そして尾形はナマエの顔を見て頷いた。
「行くぞ。あの女の言っている事が正しければ下手人は谷垣の村田銃を持ってるらしい。……俺から離れるなよ」
控え目に頷くナマエに背を向けて尾形は一歩を踏み出した。己の背後より更に後ろ、ナマエの背後の気配まで探りながら。
ナマエの指差した方向に向けて歩いて行くにつれて何者かの蠢く気配は確かに大きくなり、怒鳴り声も聞こえてくるようになった事で尾形は彼女の耳と彼女を信じると決めた自身の選択に顔を緩めた。それは最早耳の良いナマエのみに聞こえる音ではなく、尾形にも当然聞こえていたからだ。
「……近いな」
三八式歩兵銃の弾薬を確認しながら呟いた尾形にナマエは緊張したように唇を噛む。彼女の下ろされた白い手が握り締められて震えているのを見た尾形は静かに息を吐く。
「ナマエ、お前ここにいろ」
「えっ?どうして、」
驚くように琥珀色の瞳を大きく見開いたナマエは何かに気付いたように唇を噛んで俯き、僅かに視線を落とした。
「……私は、役に立たない?」
困ったように微笑んだナマエは尾形の顔を見て、それから頷いて何でもないような顔をする。
「大丈夫、ここから動かないよ。……尾形も怪我をしないよう気を付けて」
祈るように彼の頬に白い手を添えたナマエを見つめる尾形は苛立つように顔を歪め、それからナマエの頭を乱暴に撫でた。突然の事に面食らうナマエに尾形は噛んで含めるような口調で言葉を紡ぐ。
「遊びじゃねえ、分かるだろ。どう転んだって銃を持ってる奴を相手にするんだ。お前を護ってやる余裕があるか分からねえ」
迷いを吐露するような声音は尾形の感情の揺れ動きをナマエに教える。揺れるその音にナマエは伏せていた目をつい、と上げた。
「……護ってくれなくて良い、それ以上に離れたくない。離れてしまって後悔、したくない」
真っ直ぐな琥珀の瞳が尾形を射抜く。ほんの一瞬、尾形は虚を突かれたようにその瞳をただ見つめた。しかしナマエの握り締められた震える手に気付くと静かにその手を取る。
「馬鹿、俺が折角気を回してやったのに、勝手な奴だな」
「分かってるよ。でも、勝手をしたって尾形と一緒がいい。…………ごめん」
ナマエの手を解すように触れた尾形は今一度喧騒の聞こえる方へ目を遣った。それからナマエに向き直る。
「俺より前には絶対に出るなよ」
「分かった、邪魔しない。尾形も無理はしないで」
覚悟を決めた瞳が交差し合って、頷き合う二人に言葉は無かった。何言もそこには必要無く、ただ瞳の奥にある色がナマエの感情を伝え、尾形の意思を映した。
***
追っ手を撒こうと湖を突っ切った谷垣であったが遂に追い詰められ、絶体絶命の窮地に立たされていた。何を言っても信用されないであろう事は最早火を見るよりも明らかで、谷垣は盛大に顔を歪める。自身の銃から、否、「二瓶鉄造の銃」から目を離した事を正に死ぬ程に後悔した。
理解出来ない言葉で捲し立てられ四方から銃を突き付けられ、最早これまでかと彼が膝を突きそうになった時であった。突然全く見当違いの方向から銃声が聞こえる。新たな追手かと苦々しい感情が湧き上がるのを隠しもせず、谷垣はそちらを見た。しかしそこにいたのは。
「久し振りだな。谷垣一等卒」
「谷垣ニシパ……、」
「は……、尾形、上等兵?ナマエ……?」
思いもしない新手に谷垣だけでなく谷垣を取り巻いていた釧路コタンのアイヌたちも一瞬呆気に取られていた。しかしすぐに気を取り直して闖入者を警戒するように睨み付ける。
「……谷垣、お前小樽にいたはずだな?どうしてここにいる?」
しかしながら尾形はアイヌたちの視線など物ともしない。まるでここには尾形と谷垣の二人しかいないかのように、彼は谷垣の事をただ見ていた。その声音の無機質さに、尾形の背後でナマエはぞくりとした背筋の粟立ちを感じる。
「『まだ』鶴見中尉の命令で俺を追っているのか?」
「違う!俺はアシリパを連れ戻しに来ただけだ!アシリパを、婆ちゃんの許に!やっと見つけた、俺の『役目』……!」
谷垣の強い視線が尾形に向き、その背後のナマエにも届く。ナマエは何も言う事が出来ずただ、成り行きを見守っていた。口を挟む事自体、憚られた。
「頼めよ、『助けてください、尾形上等兵殿』って。そうしたら、助けてやるぜ?」
にやにやと楽し気に三八式歩兵銃に弾を装填する尾形の場違いな声音にナマエはびく、と身体を揺らす。どう見たって事態は緊迫していてそのような楽し気な声音など出せる雰囲気でもないのに尾形の声は確かに笑んでいて、それがナマエには恐ろしかった。それがナマエと尾形の違いを彼女に明らかにさせた。
「っ、アンタの『助ける』はこの人たち全員を殺す事だろうが!話し合えるはずの人を!ナマエの目の前で!」
谷垣の言葉にアイヌたちが俄かに動揺する。警戒するように尾形に銃口を向けたアイヌの一人に向けて殺気を放つ尾形を押し留めるようにナマエは尾形の袖を取る。
「尾形、」
怖々とそれでも意志の強い瞳が尾形を制するように光る。その瞳の奥の恐怖の色に、尾形は目を細めた。その恐怖はこの事態に対するものではなく、確かに「尾形に対する」恐怖の色であった。
「……分かってる」
静かな平坦な声に肩を揺らすナマエに尾形は彼女から視線を逸らした。それから手の内の三八式歩兵銃を地面に置くと静かに両手を上げる。
「話し合いに応じる気はあるんだな?」
頷くアイヌたちにナマエはただ、怖々と息を吐いた。あれだけあたたかくて頼もしかった尾形の背中が別人のもののように見えて恐ろしかった。彼の事が、遠い存在に思えて。
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