ぱちり、ぱちりと木片が爆ぜる音が静かなチセに漂う空気を震わせる。仲間たちが寝静まった中、ナマエは薬草を磨り潰し、尾形は三八式歩兵銃の手入れをしていた。お互いに言葉は無く、ただ揺らめく炎が長く伸びる影を作る。
そっと、尾形はナマエの方を窺う。白い横顔は暗く揺らめく影によってどことなく神秘的な雰囲気を纏っている。長く伸びる睫毛が影を作り、彼女の琥珀色の瞳を覆い隠していた。
「……なあに?」
気付けばゆっくりとナマエの瞳が尾形を捉えていた。気付かれていないとは思わなかったが、声をかけられるとは思わなかったので尾形は一瞬器用に片眉を跳ね上げて、それから「別に」と低く呟いた。
「そう」
小さく呟いてまた薬草を磨り潰す作業に戻るナマエを再び尾形は見つめる。何と声をかけていいか迷って、それからふと、彼女の兄の事を思い出した。
「お前、兄貴とよく似てるな」
「え?……そう、かな。言われた事、無いから分からないや。私と兄さんは、異父兄妹だから」
困ったような、複雑そうな顔をするナマエを尾形は訝しむ。その顔にナマエは薬草を磨り潰す手を止めて、尾形の方へ視線をやった。真剣な眼差しに尾形も銃にかまけていた手を止める。
「……尾形はさ、家族との楽しかった思い出って何かある?」
ナマエの問いに尾形は咄嗟に何の返事もできなかった。脳裏を過ぎる母の背中に喉が詰まって何も言えなかった。或いはそれに重なるようにして思い起こされたあの見返りが彼の言葉を封じたのか。
「……、ごめんね。言いたくなかったら良いの。踏み込んじゃってごめん」
「いや、いい。……俺は……早くに親を亡くした。俺を育てたのは母方の祖母だ」
尾形の沈黙を勘違いしたのか眉を下げて考えに沈むように遠い顔をするナマエに尾形はかつての己を見た気がした。何がどう似通っていたのか尾形は説明できなかったし、そもそもあの頃の自分の状態を言語化する術も持っていなかった。それなのに気付いた時にはそう口にしていて、ナマエの驚いたような顔から逃れるように三八式歩兵銃に意識を無理矢理持っていく。
「あの……、尾形のフチは優しかった?」
「……そう、だな。お前の兄貴は?まあ、あの男はお前には優しいだろうな」
「うん、そうだね。兄さんは私の兄さんで、そして両親の役割もしてくれた。兄さんが家族だって初めて聞いた時は本当に嬉しかった」
得意そうにくすくすと微笑むナマエの目はしかしぼんやりと炎を見つめる。揺らめく影がナマエの琥珀色の瞳にさざ波を立て、尾形にはまるで彼女が泣いているかのように見えた。
「兄さんは、私のために全てを捨てようとしている」
唐突に吐き出された告白に尾形は何と返事をしていいのか分からなかった。しかし唯聞いているという反応は見せる。
「お父さんもお母さんも、友達も、好きな人も、アイヌとしての一生も何もかも、私のせいで捨てようとしている。私のせいで。……私が、生まれてきたせいで」
だからね、自分の容姿を見るといつも思う。私はどうして生まれてきたのか。どうして、生まれる前に神様の世界に返してもらえなかったのか。
唇を噛んで項垂れるナマエの小さな身体は震えていた。涙を堪えるように両の手を握り締める彼女にかける言葉を尾形は探そうとして止めた。尾形はゆっくりと立ち上がるとナマエの隣に腰を下ろす。不思議そうに彼を見上げるナマエの顔を見つめ返した尾形はそっと、彼女の眦に僅かに浮かぶ涙を不器用に拭った。
「お互い、家族には苦労するな」
「……?う、うん?」
いまいち尾形の言を理解出来ていないナマエに緩く笑った尾形は彼女に伸ばした手でナマエを引き寄せる。僅かに抵抗しようとしたナマエだったがすぐにその抵抗は止み、彼女は尾形に寄り添うようにその身を彼に預けた。
「あ、の、尾形……、」
「…………俺はバアチャン子で、バアチャンの作る飯を食う時が一番楽しかった」
「……!わ、私はね、兄さんと一緒に山歩きをするのが楽しかったよ!時々アシリパも一緒に!」
尾形の言葉に嬉しそうに微笑むナマエを見る尾形の顔は穏やかで。ナマエは頬を染めて笑った。興奮気味に声を高くするナマエに尾形は唇の前で人差し指を立てて、ナマエの背後、眠る仲間たちの方に視線をやる。はっと気付いたようにこくこくと頷いてナマエは尾形の方に顔を近付けた。
「ご、ごめんなさい……、つい、嬉しくて」
「アイツらが起きたらうるさくて仕方ねえだろ。……それで?山歩きって、何すんだ」
「え?えっと、私は薬草集めで、兄さんは狩り、かな。尾形はフチの料理で何が好きなの?」
「……あんこう鍋」
「尾形の好物はあんこう鍋なんだね。絶対覚えておく。あんこうは北海道でも取れるからいつか獲りに行って、それで皆で食べよう?約束だよ」
人懐こそうに微笑み尾形を見上げるナマエに尾形はふ、と微笑むと彼女の小さな頭を抱いて自身に近付ける。尾形の低い体温と、まだ発展途上の少女の少し高めの体温が混ざり合ってお互いの身体を意識させる。兄には勿論杉元や白石、キロランケにすら感じたことの無い感情にナマエは戸惑う。しかし離れ難くもあった。
「なんだか、凄く安心する……」
「そうかい」
「尾形は?私とこうしてて、安心する……?」
純粋な、それでいて不安げな瞳が尾形を見つめる。その視線のあまりの純真さに一瞬目を細めた尾形は逃れるようにナマエの目を武骨な手で覆う。
「……かも、な」
小さな声がナマエの耳に届いたかどうかは二人しか知らない。
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