それからどうなったのか、ナマエは実のところよく覚えていなかった。ただ、いつの間にかキロランケから引き離されて、気付いた時には全てが終わっていた。
呆然自失のナマエに誰も声すら掛けられない。それでも怪我人の治療のために一行はどこか手当てを出来る場所を探すため、その場を後にする事となった。キロランケを、後に残して。
いつの間に合流したのか岩息も現れて、彼らは帰還のための準備を始める。
「…………」
そこにはナマエとキロランケの亡骸だけがあった。慌ただしく帰還の準備がなされる中、ナマエは静かにキロランケの傍に膝を突くと、己のマタンプシを額から取る。
「キロランケ、ニシパ……」
その言葉の先を、聞いた者は誰もいなかっただろう。彼女はそっと、乾き始めていたキロランケの顔を汚す血を拭う。眠っているかのように見えるその亡骸の頬にナマエは静かに指を這わせる。何一つ、言葉にならなかった。どんな言葉も形にならなかった。ただ、一言絞り出すのが精一杯だった。
「……さよなら」
立ち上がって、仲間の許に歩いて行くナマエはもう、振り返らなかった。振り返ってしまえばきっと二度と立ち上がれなくなってしまうから。
「……ナマエ」
どこか居心地の悪そうな鯉登にナマエは頷きを返す。謝られるのは違うと確信していた。けれど勝利を誇られるのも違う気がした。何も言われないのが妥当だと、そう思ったのだ。
「行きましょう。月島ニシパも、鯉登ニシパにも、…………あと、尾形にも、手当てが必要です」
表情の抜け落ちた、幽鬼のような有様のナマエに誰もが物言いたげな顔をするが、何よりそれを一番許さなかったのはナマエ本人だった。気遣わしげに顔を見合わせながらも、一行は歩き出す。帰るために、そして生きるために。
亜港監獄周辺の集落に身を寄せた一行はすぐさま怪我人の治療を始めた。ナマエもやる事があった方が気が紛れるのか、甲斐甲斐しく怪我人たちの世話をしていた。不自然な程に明るい笑顔で彼らに応対するナマエの目許の隈が日増しに濃くなっていく事に気付かない者などいなかったが。
「……ナマエは、大丈夫なのか」
水を汲んで来ると言い残して、トラフを後にしたナマエの背を追い掛けるように入り口に視線を遣った鯉登に杉元も渋い顔をする。
「…………表面上は元気を装ってるけど、かなり無理してるみてえだ。……食事も受け付けられねえで、すぐに吐いちまうみてえなんだ」
「っ……」
顔を歪める鯉登に杉元はかねてよりの考えを口に出す。
「なあ、鯉登少尉。一度尾形を医者に見せられねえか」
「……何を言っている?尾形など、危険を冒してまで助ける必要があるものか」
「……ナマエさんのためだ」
口実は山程あった。例えばナマエのため、情報のため、色々あった。でも本当は一番の口実は秘したままだった。アシリパの魂を尾形の死で汚したくないという。
「俺が言うのもなんだけど、多分ナマエさんは尾形の事を好いていたと思う。今あんなに憔悴しているナマエさんがこれ以上何かを喪ったら、俺はそれが怖い」
尤もらしい理由に鯉登は渋顔をしながらも、考え込む。それに手応えを感じた杉元は駄目押しの一手を鯉登に与えた。
「月島軍曹だって、一度医者に診て貰った方が良いだろ?」
その言葉が決め手だった。結局杉元が医者を連れて来る運びとなり、鯉登からその事を聞いたナマエは僅かに微笑んで「そう」とだけ呟いた。
「その、それでだな……ナマエ。お前も、診て貰ったらどうだ」
「私?どうしてですか?」
「……もう幾晩も満足に眠れていないだろう」
心配そうにナマエの目許に手を伸ばした鯉登だったが、その手は弾かれてしまった。他ならぬナマエによって。
「っ……!」
「……ぁ」
鯉登の手を叩いたナマエも無意識だったのだろう。自身の行動に驚いて目を見開いていた。それは確かな拒絶であった。今まで鯉登を頼り、僅かでも距離の縮まってきたと思っていた彼女からしてみれば思いも寄らぬ、確かな拒絶を、彼女は意図せず発してしまった。
「……すまない。不躾な真似をした」
「……いいえ。私の方こそごめんなさい。……びっくり、しちゃって」
気まずい雰囲気に俯く二人だったが、その空気を打ち破るように部屋の隅から呻き声が聞こえる。尾形だった。
「ちょっと、すみません」
急いで尾形の方に駆け寄ったナマエが甲斐甲斐しく尾形の世話をするのを苦々しそうな表情で見つめながら、鯉登は両手を力強く握り締めた。あれだけ近付いていた己と彼女の距離が、今とても遠くに感じられてならなかった。
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