そして彼女は

大きく負傷した谷垣の姿を見て唇を震わせたナマエであったが、すぐに簡易的な治療を始める。とはいっても止血をして、流れた血を拭う事しか出来ないのだが。

「すまん」

「大丈夫……」

「行け」

「え?」

力強く掛けられた言葉にナマエは瞠目した。月島たちからはスヴェトラーナとここに残るように言われていた。ナマエもこれ以上何か役に立つとは思えなかったから甘んじてその提案を受けた訳だが。

「不本意なんだろう?この先にお前を待っている人間がいるというのに」

「っ!」

谷垣の言葉にナマエは顔を歪める。それから俯いてたった一言「ありがとう」、そう呟いて月島たちの歩いて行った方に駆けて行った。その背を見つめ、スヴェトラーナが何事かを呟いたがロシア語を解さない谷垣には彼女が何と言ったのかは分からなかった。

月島たちを追って走るナマエはこれまでになく頭がはっきりとしているのを感じていた。失われた欠片が一つ、また一つと頭の中に返って来る。誰と、どのように、どうしてここまで来たのか。まるで割れた破片を繋ぎ合わせるかのように全ての記憶が一つになっていく。

そうすると不思議と涙が溢れて止まらなかった。溢れた涙は瞬時に凍って、ナマエの頬を灼いていく。乱暴にそれを拭ってナマエは遂に月島たちの背を視認した。

「月島ニパ!鯉登ニパ!」

それは突然だった。屈んだ鯉登が立ち上がった直後、大きな爆発が起こったのだ。仕掛け爆弾だと気付いた時、彼女はまた一つ思い出した。大好きだったキロランケが日露戦争に従軍していた事を。

「月島ニパ!鯉登ニパ!大丈夫!?」

「ナマエ!?お前何故ここに……!」

「……ぅ」

鯉登の焦ったような声を無視してナマエは月島の脇に屈むとその首筋を圧迫する。痛みに顔を歪める月島の手を取りながら振り返ったナマエは鯉登の姿が無い事を知って、目を見開いた。

「クソ……!」

「あ、だめ……!まだ動いたら……!」

「だが、鯉登少尉を……放ってはおけない……」

息も絶え絶えな月島はナマエの言う事を頑として聞かず、仕方なくナマエは月島の身体を出来る限り支えながら先へと進んだ。負傷した月島から流れ落ちる血液の量はおびただしく、適切な治療が無ければ彼の命にもかかわるのだという事を、彼女は感じた。それと同時に優しかった「彼」が「敵」に対してそこまで非情になれる男である事も彼女は知った。

(キロランケニパ……)

祈るような気持ちで出来うる限り先を急ぐナマエであったがやはり男一人を支え切れるだけの体力は持ち合わせていなかった。とっくの昔に息は上がり、膝は笑っている。それでも先へ行こうとするナマエの左側から崩れ落ちそうになる月島を支える手があった。谷垣だ。

「谷垣ニパ……!」

「大丈夫か?」

軽々と月島を支えた谷垣に、ナマエはがくりと膝を突いた。弾んだ息に谷垣は顔を歪めたが、気を取り直したように「急ぐぞ」と言った。ナマエも同意して頷く。月島も負傷を押して半ば駆け足気味に鯉登の後を追う。ナマエがその二人の影を視認したのはそれから五分にも満たない頃であった。

「鯉登ニパ!!」

悲鳴にも似たその呼び掛けが彼らに届くよりも先に、数発の銃声が辺りに響く。月島と谷垣のものだ。目の前で崩れ落ちるキロランケに堪らずナマエは駆け出した。

「ナマエ!!」

「止めて!!」

キロランケに止めを刺そうとする鯉登の前に立ち塞がるようにして、ナマエは二人の間に飛び出した。見た事の無いくらいに鋭い表情をした鯉登に気圧されるも、彼女はその目を真っ向から睨み付けた。

「退け、ナマエ。そいつに止めを刺す」

「…………でも、」

「ナマエ!!」

苛立たしそうな鯉登の声はナマエの耳朶をしこたま打つ。それでもナマエは退かなかった。否、退く事が出来なかった。全て、思い出したから。

「お願い、やめて……、キロランケニパは、わたしの……」

「ナマエ」

硬い声が有無を言わせず、ナマエの言葉を奪い去る。その言葉の続きも思い出せないまま、ナマエは力無く項垂れた。何を言おうとしたのだろう。キロランケは彼女の。

コメント