まるで夢の中のようにふわふわとした感覚だった。地に足が付いていないようで気分が悪く、走っている感覚さえも無かった。ここが何処で、目の前の人が誰で、私は誰で、この感情は何なのか、そんな取り留めの無い疑問がぐるぐると頭の中を巡っていた。立ち止まって膝を突いて、気付いたらおかしな空間に立っていた。
白くて壁も無いのに、私たちの「道」が色の付いた写真のように鮮明に映し出されては消えて行った。それは確かに見覚えのある光景ばかりだった。これはそう、私の思い出。
記憶を手繰られるように、今までの「道」の絵が引っ張り出されていく。楽しい事も怖い事も嬉しい事も悲しい事もいっぱいあった。でもどうしてだろう?絵の中の人たちの顔は、皆黒々と塗りつぶされて、誰が誰なのか全く分からない。引っ張り出された絵は少しずつ、風に飛ばされる砂のように消えて行って、消えた絵はどんなに思い出そうとしても全く頭の内に思い浮かぶ事は無かった。
そうしている内に絵は全て引っ張り出されてしまって、今度はもっと奥深いところを覗かれているような気分になる。無遠慮な詮索が、何かとても大事なものを私の中から引っ張り出そうとしているのに気付く。私はそれを拒もうとするのに、それらは悠々と私から「それ」を奪った。
「 」
だから、口にする言葉が分からない。
私には確かに呼びたくて堪らない名前があったのに。伝えなければならない言葉があったのに。私はそれを忘れてしまってそして、詮索は私から「忘れてしまった」事実すらも奪っていく。
生まれた時の魂のような存在の私はただ大河の流れに揺蕩うように押し流されていく。どこまでもどこまでも、何も考えず、何も感じずに。
きっとこのままが楽に違いない。戻っても悲しい想いをするだけだ。
そんな声がどこからか聞こえてきて妙に納得してしまった。確かに、そうに違いない。どうしてだか分からないけれど、「あちら」にいた時、私はとても悲しかった気がするのだ。楽しくて嬉しくて幸せで、どうしようもない程に悲しくて、生きていても仕方ない。そう思ったから、きっとここに来たのだ。
後悔しない?あの人を追いかけないの?
今度は反対側から違う声が聞こえる。後悔って何?あの人って誰?そんな疑問が過ぎる。でもたとえその答えが分かったとして、それはきっと苦しくて悲しい道に違いない。だってその問いの答えを考えただけで、私の心臓は苦しいぐらいに痛く、感情は滅茶苦茶になるのだから。
(痛いのも、苦しいのも、もう、嫌だ)
声は出ないけど、頭の中はそれでいっぱいだった。それなのに、身体が勝手に起き上がろうとする。まるで、何かに刻み込まれたように、感情とは正反対に、私の身体は戻ろうとしていた。手を突いて立ち上がって感情が拒否をする。
大切な気持ちを身体が覚えてる。でも、感情はそれを否定してる。
笑うような声が背後で聞こえて、振り返って心臓が揺れた気がした。そこにいたのは私だったから。そっくりな他人でも鏡でもない。それは確かに私だと、一目見て分かった。「私」は微笑んで私に手を伸ばす。
それならあなたに祝福を与えよう。全てを忘れて戻りなさい。
私のこめかみに触れた「私」の手は冷たくて、まるで生きた人間ではないようだった。触れられた途端、急に途轍もない眠気が襲って来て倒れ込む私の顔を覗く「私」の唇が動いたのが微かに見えた。
かれを、すくって
薄れゆく意識の中、「私」の唇がそう動いたように見えた。そして私の意識は暗い闇から明るい光へと引っ張り上げられていった。
声を頼りに意識が持ち上がる。ナマエ、ナマエと名前だろうか。同じ言葉を繰り返す声。涙交じりのその声は誰かに窘められて一度小さくなるがすぐに元に戻る。その声を頼りに、私は静かに目蓋を持ち上げた。日の光が閉じていた目には痛く、涙が滲む。
目の前には男の人の顔があった。黒灰色の瞳をした、綺麗な顔の男の人だった。優しそうな顔は驚きに満ちていて、それから安堵の表情に急激に変わった。傍らにもう一人、生真面目そうな男の人も僅かに驚きの表情をしていた。何故か、それらが懐かしい。
「ナマエ!良かった……!目を覚まさないから心配したんだ!」
「エコリアチ。無理をすると傷口が開くぞ」
身体を起こした私を力強く抱き締める男の人に疑問が募る。僅かな血の臭いに視線を動かせば彼は腕に怪我をしているようであった。巻かれている包帯には血が滲んでいて痛々しい。きっとまだ痛いだろうそんな状態なのに私を抱き締めるこの人は。
「……だれ?」
小さな疑問だったのに、この狭い部屋に私の言葉はとても大きく響いた。空気を揺らし、私を抱く男の人の顔を驚愕の表情にする。生真面目そうな男の人も怪訝そうな様子だった。
「ナマエ……?お前、何言って……」
「ナマエ、って誰?私は……、」
そこまで口にして気付いた。私は一体、誰なのだろう。
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