それは遠い日の事

じっと、遠くから眺めていた。親とはどういうものなのか、子とはなんたるものなのか。兄姉とはいかなる存在で、弟妹に何をすべきなのか。分からないから眺めていた。ナマエにとって、家族とは全くの未知であった。

生まれてこの方、血の絆の安堵を知らなかった。それの有無が人生に何の影響をもたらすかも分からなかった。ただ一つ、ナマエに分かっていた事は、自分には誰しもが持っている決定的な「何か」が欠けていて、それが己のどうしようもない不安に繋がっているのだろう事だった。

物心ついてから一度だけ、ナマエは産みの母親に近付いた事がある。確かめたかったのだ。大人たちがこそこそと噂している事は本当なのか、本当に、彼女が自分の母親なのか。

どうして捨てられたかなんて、考えもしなかった。きっと何か、他の「コタンの子」のように事情があったのだろうと思っていた。

だから、いざ母親と呼ばれるその人の前に立ち、その眼差しを見た時に、恐ろしかった。その眼差しに込められていた恐怖と憎悪が。愛されて生まれてきた訳ではない。そして望まれてすらいなかった。それを知って初めて、ナマエは己が無価値である事を知った。この世に生まれてきたならば、何の苦労もなく得られるはずのそれを、己は得られなかったのだと気付いたからだ。

価値ある人間になりたかった。誰からも好かれて愛される、「価値のある」人間に。

だから必要以上に相手の表情を見て、聞くようになった。元々必要以上に見えて聞こえていたから、それは造作も無い事だった。相手の役に立つと、彼らは喜んだ。喜んで、ナマエが彼らの傍にいる事を許した。ナマエはただ、相手の存在を見て、聞いて、相手のして欲しい事をした。それで良いと思っていた。

それは遠くから、眺めていた時だった。己の兄だという青年を、両親が慈しんでいる様子を。強く頼もしい父親と優しく微笑む母親。青年は少し照れ臭そうに笑っていた。その光景を目に焼き付けようとしていた。目に焼き付けて、夢の中でその光景に己の存在を継ぎ接ぎしようと思った。

「あ、ナマエ」

「……!ア、アシパ……」

コタンで唯一の友人に声を掛けられて、ナマエは振り向いた。アシパはナマエの生まれの事を曖昧に知っている。それでも傍にいてくれる彼女をナマエは信頼していた。

「……どちら様?」

だからこそ、彼女の背後にいる知らない男の事をほとんど警戒しなかった。

「ああ、彼はキロランケニパ。アチャの古い友人だ」

「そう。アシパの、アチャの」

ゆっくりと、視線を上げてナマエは男を見た。それから微笑んで見せた。出来るだけ愛らしく見えるように。

「アシパの友達の、ナマエです」

「…………」

キロランケと呼ばれた男は考えるようにナマエを見て頷いた。それが彼と彼女の出会いであった。

***

キロランケは時々、ウイルクに会いにアシパやナマエのコタンを訪れた。ナマエも顔を合わせれば挨拶をする間柄であったが、それ以上でも以下でもないと思っていた。

「よう、ナマエ」

「キロランケニパ、こんにちは……」

コタンの者から頼まれた用事を終わらせて、休憩していたナマエにキロランケが声を掛けた時、ナマエはただの挨拶のために彼がここに来たのではない事をすぐに悟った。

彼はナマエの隣に人一人と半分の間隔を空けて腰掛けると、ぼんやりと空を見上げた。何を言われるのかが分からず、ナマエは俯いていた。

「ナマエ」

「……はい」

「子供は、子供らしいのが一番だぜ」

「……はい?」

言われた事をすぐに咀嚼する事が出来ずにナマエはキロランケを見た。彼はナマエを見て微笑んだ。

「思い切り笑って、思い切り泣く。子供っていうのはそういうモンだろ?」

同意を求められて頷こうとして、ナマエは固まる。つまり、キロランケはそれを自分に求めているのだと気付いて。

「あ、いや、私は、えっと……」

咄嗟に上手い言い訳が思い付かない。自分が望まれていない事を吹聴する気にはなれなかった。

「生まれる前の事なんて、お前のせいじゃない。ナマエはただの子供なんだから、他人の顔色なんか窺わなくて良いんだよ」

「……!」

ナマエは息を呑んだ。キロランケは既にもう知っているのだと気付いたから。知っていて、そんな眼差しを向けてくる大人をナマエは知らなかった。「知ろうともしなかった」と言った方が正しいかも知れない。

「大体お前を思ってる奴は沢山いるだろう?アシパだって、エコリアチだって」

「…………うん」

「だからなあ、まァ難しいかも知れねぇが、もう少し周りを頼ってやれ」

「…………」

素直に返事が出来なくて頷くだけのナマエの頭をキロランケの手が乱暴に撫でる。

「う、わ……」

「おーい、ナマエ。何してるんだ?キロランケニパも」

「よう、アシパ」

向こうからやって来たアシパに上手く微笑みを返せたかがナマエには分からなかった。キロランケは構わず続ける。

「ナマエがガキらしくねぇって話してたんだ。アシパだってそう思うだろ?」

アシパに何と言われたかはもう覚えていない。でも、少しだけ心の澱みが洗われたのは事実だった。

それがナマエとキロランケにあった事だった。それだけだった。

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