行く手から大きな爆発の音がした。それはナマエの「カムイの耳」ではなくても聞こえるくらいの大きな音でナマエを始めとした全員が緊張に身体を硬くした。
「何だ?」
「亜港監獄の方からだ」
見えない状況に緊迫した面持ちで一行は慎重に歩を進める。眼前に見えて来た亜港監獄からは白煙が上がっていて、明らかに何かが異常であると皆に教えた。
「人の騒ぐ声がする。……もしかして、追い付いたのかな」
ありそうな可能性にナマエが言及する。彼女に言われずとも皆その可能性に気付いていたようで、月島は慎重に状況を確認しようと双眼鏡を構えた。
「……どうやら、脱獄のようです」
「脱獄?」
「爆発したのは監獄の壁面。囚人たちも騒いでいる」
淡々とそう口にする月島だったがナマエやエノノカ、チカパシにとって危険である事は疑いようが無い。一瞬彼らをここに置いて行く事を誰もが考えた、しかし。
「行こう。この先に、待ってる筈だから……」
覚悟を決めたようなナマエの表情に杉元は目を見開いた。あの日、ナマエに尾形と彼女の事を伝えた時からナマエは随分と追い詰められたように先を急ぐようになった。まるで焦りでもあるかのように。危険も顧みずに。
「ナマエさん」
「危険なのは分かってる。足手纏いになったら置いて行ってくれて良い。それでも私は行きたい。この先に待っている人に、逢いに行きたい」
有無を言わせない表情はこの旅で初めてナマエの内面に触れた鯉登や月島だけでなく、出会ってもう長い杉元でさえも見た事の無い表情だった。触れたら切れてしまいそうな鋭い表情はどちらかと言えば彼女の兄の良くする表情だったと鯉登は場違いにそんな事を思い出していた。
「……分かった。じゃあ、行こう。危険だからナマエさんたちは俺たちの後ろに」
頷き合って一行は足早に、しかし慎重に亜港監獄までの道を進む。監獄に近付くにつれて慌ただしい足音、怒号、銃声、その何もかもがナマエの耳を渦となって襲う。取捨選択も出来ず全ての音を拾ってしまう耳を塞ぎながらナマエはただ走った。脳裏に浮かぶのは誰の物とも分からない、記憶の欠片だった。
(思い切り笑って、思い切り泣く。子供っていうのはそういうモンだろ?)
(ナマエはただの子供なんだから、他人の顔色なんか窺わなくて良いんだよ)
(アシリパだってそう思うだろ?)
断片的な記憶が明滅する。それでも一番後ろを小走りでついて行くナマエの表情に気付いたものは誰もいない。その顔は愁いを帯びて曇っていた。ナマエ自身その感情を完全に理解した訳では無かったけれど、何故だか表情が独りでに「そう」なっていくのだ。
「大丈夫か」
ともすれば遅れがちになる(元々大の男と少女では歩幅が違い過ぎる)ナマエを気遣うように振り返った鯉登と月島にナマエは慌てて頷いて足を速める。二人の間に割って入るようにして一行に追い付いたナマエは無理矢理に口角を上げた。
「大丈夫。私は、大丈夫」
自身に言い聞かせるような言葉は強くそして重く、鯉登や月島に口を挟む隙を与えない。物言いたげな鯉登の顔を無視するように一歩を踏み出したナマエに彼は僅かに目を細めてそして、発するべき言葉を飲み込むように彼女に続いた。
監獄は上を下への大騒ぎだった。殆どの囚人は逃げてしまったようだったが、その囚人を追う看守たちで辺りは騒然としている。あと一歩のところでアシリパたちには追い付けなかったけれど、それでもかなり近くまで来た事は容易に窺えた。
逸る杉元と同じくらい何かに急かされるように一歩を踏み出そうとしたナマエだったが、先に行ってしまった杉元の背が遠くなって初めて、彼女はその身を襲う慄きに立ち向かうように大地立つ足に力を入れた。流氷の上を行く事を尻込みする鯉登を尻目に一歩を踏み出した彼女の背に、戸惑うような鯉登の制止の声が掛かったのにも気付かないまま。
杉元の背を追って走るうちに天候は急激に変わっていく。あっという間に吹雪が顔を叩いて目も開けられなくなっていく。風に押し戻されないように踏ん張って先を急ぐナマエの思い詰めたような表情は吹雪に隠れて鯉登たちには見えなかった。
「杉元の足跡はこっちに続いている」
不意にナマエが流氷の影に目を遣った。誰かいる。女だった。
「スヴェトラーナさん……?」
ぽつりと呟いたナマエの声は月島にしか届かなかったようだ。鯉登と谷垣は立ち止まった彼らに気付かずに先に進んでしまいその姿は吹雪の彼方に消えてしまった。項垂れて蹲るスヴェトラーナにナマエはもどかしい思いを抱えながら駆け寄った。月島もその後に続く。
「スヴェトラーナさん!」
ナマエの声にスヴェトラーナが顔を上げる。見覚えのない少女が自身の名を知っている事に彼女は一瞬怪訝そうな顔をしたが、月島が事情を説明したことでやや納得した表情を見せる。ロシア語の分からないナマエには月島とスヴェトラーナが何を話しているのかまでは分からなかったが、突然激昂した月島を見るに何か彼の琴線に触れるような事を彼女が言った事は明らかだった。
「ちっ、行くぞナマエ!」
「え、でもスヴェトラーナさんは……」
「連れて行く。どの道この吹雪では置いてはいけない」
強く頷いたナマエはスヴェトラーナを一瞥してそれから前を向いた。それは歩き始めてすぐの事だった。ナマエの耳が微かに吹き荒ぶ風雪の音とは異なる音を捉えたのは。
「銃声……!」
「本当か?」
「この先から聞こえた!」
足早にナマエの指差す方向に駆ける。僅かに人影を見付けて駆けよれば、そこには月島たちを探して道を引き返してきた鯉登がいた。
「何だその女は?」
「燈台守の夫婦の娘です。ナマエが見つけ、置いて来る訳にもいかず連れてきました」
びゅうびゅうと耳を打つ風の中で、ナマエは必死に自身の居場所を確認しようとする。そうでなければ不安だった。兄が兵隊になると言ってコタンを出た日も、風が強い日だった。大切な物をもう二度と失わないように、ナマエは目を大きく見開いて、耳を確りと澄ました。
「っ、谷垣ニシパは!?」
嫌な予感、というのだろうか。ナマエの声に月島と鯉登は顔を見合わせ弾かれたようにそこへと向かっていく。ナマエもスヴェトラーナを連れて慌てて彼らの後を追った。
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