メコオヤシ

それから、灯台守の老夫婦に一宿一飯の世話になった一行はスヴェトラーナの写真を一葉、新たな旅の伴に加えて国境へ向けて更なる旅を続けるために出発した。老夫婦と別れる時、ナマエは彼らの娘に似ていたのだろうか、特別別れを惜しまれて菓子やら何やらを大量に持たされていた。ナマエも覚えたてのロシア語(と言っても彼女は「おいしい」と「ありがとう」しか知らないのだが)でそれに応える。

「すぱしーば……!」

拙い発音のロシア語で別れを惜しむナマエと月島の通訳を経て彼女に言葉を掛ける老夫婦はある意味で本当の親子のように見えて、杉元たちも暫し彼女の好きにさせる。最後に一度、彼らと別れの抱擁を交わし、名残惜しそうに何度も振り返りながら橇に乗ったナマエの目の端が濡れていて、鯉登はそっと彼女の頭を一度撫でた。

「大丈夫か?」

「……うん」

ヘンケの掛け声と共に犬橇は風を切って進み出す。最後に一度振り返ったナマエの目の端から零れ落ちた雫が風に乗って流れていく。老夫婦が見えなくなるまで振り返っていたナマエは彼らが見えなくなると前を向き、そして後ろに座る鯉登の身体に少しだけ自重を預けた。

「……どうした?」

「ううん。……何でもないです」

激しい風音にナマエの小声が聞こえたかは分からない。それでも彼女が落ちないように回してくれた鯉登の腕の力が僅かに強まった事をナマエは感じた。

その腕の力はナマエに彼女の兄を彷彿とさせた。不安な時、きっと自身を安心させてくれていたのであろうその腕の力を。ナマエは少しずつ、思い出しつつあった。失われた記憶が少しずつ、ふとした時に蘇るのだ。集落の人々の騒めきの中に、夜の木陰の影に、炉端の焔にかつて見た記憶が。

そして、ナマエは知っていた。自身の旅の行き着く最後に待っている人がいる事を。

「……あ、」

「どうしたのだ?」

「いいえ、何でも、ないです」

風を切って進む、早い橇だったから見間違いかも知れなかった。それでもナマエは確かに見た気がしたのだ。目の端に、赤と白のブチ模様の大きな動物を。鯉登はナマエの言葉に僅かに顔を歪めたが、それ以上何も言及することは無く、ただ彼女の小さな身体を何ものからも守るように強く抱いた。駆け抜ける橇に揺られながら、ナマエはその腕の力強さをただ感じていた。そして漸く一行は国境まで百四十キロ付近の新問の辺りに辿り着いたのだった。

到着した一行はまず、拠点とする住居を探した。幸いそこにもアイヌの集落が存在していて、住人たちの厚意により拠点はすぐに見つかる事となった。情報収集の準備に荷物を纏める杉元たちを尻目に早々に支度を終えたナマエは何故かそこに自身のコタンを思い出した。幾つか思い出した良い思い出も、あまり思い出したくない思い出も沢山ある故郷だ。何もかも投げ出して、誰にも何も言わずに捨ててしまおうと考えた生まれ故郷について、今もそうかと言われたら、そこには少し迷いがあるような気がした。

コタンを捨てる、と言えばきっと兄はついてきてくれる。だが、それは兄に対して全てを捨てる事を強いる選択だ。それに、ナマエは自分の考えが以前とは少し変わっているような気がした。他人と分かり合う努力をしないで、逃げるだけで良いのかと。

「ねえねえ、チカパシ、ナマエ!この間、ここメコオヤシ出たんだって!」

「メコオヤシ?」

「何それ、怖いやつ!?」

集落の住人に情報収集をしていた際に聞いたのだろう噂話をエノノカが得意気に披露するのに、チカパシが興味を引かれたと言わんばかりに食いつく。考えを中断したナマエもエノノカの方を向いた。アイヌの伝承にはそれなりに明るいナマエだったが聞いた事の無い単語に首を傾げる。滞在している住居に戻る道すがら、エノノカからメコオヤシの物語を聞く二人に束の間場の空気が明るくなる。三人で並んでいると、まるで仲の良いきょうだいのようだと杉元や谷垣たちの口許も緩む。

「メコオヤシっていうのはね、毛皮に赤と白のブチ模様のある犬みたいに大きな猫の事だよ」

「え、それ、って……」

拠点に辿り着き、腰を落ち着けてもなお続くエノノカのメコオヤシ談義に相槌を打つナマエであったが、その特徴にぴたりと動きを止める。驚いた様子の彼女にチカパシが不思議そうに彼女の袖を握る。

「どうしたの?ナマエ」

「う、ううん!何でも無い!」

まさかそれらしき影を見たとも言えず、ナマエは慌てて首を振る。不思議そうにナマエを見ていたチカパシだったが気を取り直したようにエノノカに物語の続きを強請っている。ナマエの動揺を知ってか知らずか月島が思案顔で目を細めた。

「毛皮に赤と白のブチ模様……、オオヤマネコの事だろう」

「ふん、尾形百之助のことじゃないのか?ようやく追いついたと言ったところか」

月島の推察に吐き捨てるように鯉登が言葉を被せる。場が僅かに研ぎ澄まされた雰囲気になるのがナマエにも窺えた。理由は分からないがナマエ自身も感情を逆撫でされたような、そんなざわついた心持ちになったのだから。

「なんで山猫が尾形なんだよ」

「山猫の子は山猫……」

「山猫は芸者の隠語だ」

流れ込んでくる会話に耳を塞ぎたくなる理由がナマエには判然としなかった。懐かしくて、痛くて苦しくて、頬に残った傷跡が、ちくりと痛んだ気がした。

ナマエの異変に気付く由もない杉元と鯉登による「山猫」の話にいい加減辟易とした月島がため息を吐き、ふとナマエの方を向いてぎょっとした顔をする。その顔につられて彼女の顔を見た全員が目を見開いた。

「ナマエさん!?ど、どうしたんだよ!」

「な、何だ!何があったのだ!」

「っえ……?」

隣に座っていた谷垣に手布を差し出されて初めて、ナマエは気付いた。自身が止め処ないくらいに涙を零している事に。気付いてしまえば最後、それは感情を伴ってナマエを襲う。

「あ、れ……?何でだろう、何で、山猫って聞いたらっ……」

「……!」

「どうしてか分からないけど、その人の事を、知っている気がして……」

溢れる涙を必死に拭うナマエに痛みを握りつぶしたような顔をする杉元は静かにその頬に指を伸ばす。ぼんやりとした顔でその指を受け入れるナマエに、杉元は静かに彼女の頬を伝う雫に指を這わせた。

「おい、杉元……っ」

「少尉」

苛立ったように杉元を咎めようとする鯉登を月島が鋭い声で押し留める。強い視線と硬い声に怯んだように語気を弱める鯉登に、月島は静かに耳打ちした。

「彼女に話す時です。いつまでも隠してはおけません」

納得いかない顔をしている鯉登であったが、月島の言葉に反対する事は出来ないようで、渋々といった表情で杉元に視線を遣る。その視線に頷いた杉元がナマエに向き直った。

「ナマエさんに、話しておかなきゃならない事があるんだ」

弱々しく頷いたナマエに杉元は話し出す。杉元の知る、彼女と尾形の物語を。

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