マッチを擦る乾いた音と共に男の顔が一瞬照らし出される。その顔は憂鬱そうな顔をしていて、男の端正な顔を重苦しい雰囲気に見せた。男は咥えていた煙草に火を点すと、マッチを一振りして消し、燃え滓を足下に落とした。念には念をとばかりにそれを踏み付けた男は今日登別に到着した一団の一人だった。
男が深く吸い込む敷島が赤々と色付く。しかし男は不味い物でも喰らったかのように顔を顰めると、まだ半分以上も残っている吸い残しを足下に落として矢鱈滅多に踏み消した。眉間の皺は男の機嫌が良い物では無い事を表していて、男の容姿の整っているのも相まって、彼の雰囲気に凄みを加えていた。
不意に男は野生の獣が髪を逆立てるが如くある一点を凝視した。そこは暗がりだったけれど、何者かの気配を男は感じ取ったのだ。
「…………」
「や、エコリアチくぅん!待ったぁ?」
「宇佐美……、上等兵。二階堂一等卒も」
「ねえ、今の間は何なの?今、僕の事呼び捨てにしようとした?」
口元を引き攣らせる宇佐美にエコリアチの黒灰色の瞳があからさまに歪む。彼はこの宇佐美という男の事が余り得意ではなかった。エコリアチにとって見ればどちらかと言えばまだ、宇佐美の後ろにいる二階堂の方が滅多にこちらに話しかけて来ない分マシと言えた。
「気のせい、じゃあないですかね。……俺はそれよりもあなたたちの背後をコソコソとつけて回ってるネズミの方に興味がありますがね」
「え?」
わざとらしく訝しげに首を傾げる宇佐美にエコリアチは目を細める。彼らは(少なくとも宇佐美は)何者かが彼らを尾行している事に気付いていたという事だ。
エコリアチの黒灰の瞳が獲物を見定める猛禽類のように爛々と光る。その視界に現れたのは二人の男だった。
「よう」
「何だ……菊田さんか……」
「失礼な野郎だな……。俺だけじゃねえ、有古もいる」
肩を竦めるエコリアチは目の前の男たちに興味を無くしたのか、外套のポケットから再び煙草を取り出すと、無遠慮にマッチを擦った。その佇まいは彼の恵まれた体格のせいもあって威風凛然そのものだ。月光が彼の濡れ羽色の髪を冷たく照らす。
「それで。雁首揃えて何する予定ですか?」
紫煙を吐き出すエコリアチは黒鉄の瞳を僅かに揺らめかせる。それはまるで強者が弱者に与える戯れの慈悲のように儚げで、彼の凄みを一瞬中和させた。
「別に、俺はお前が登別に着いたって聞いたから顔見に来ただけだ。有古も戦場じゃあ、数少ねえお前の戦友の一人だろ」
「ふうん……」
真偽を見定めるように菊田と有古の顔を見比べるエコリアチだったが、不意に興味を無くしたように、宇佐美たちに向き直る。
「部屋に戻りましょう。俺はこんな所でぼんやりしてられない」
「……まあ、そう焦るなや。まだ夜は長いだろ」
「…………俺は時計という物に縛られるようになってから、一分一秒に常に追われてます」
「お前も軍隊の歯車に成り下がったってワケか」
苦笑する菊田の瞳を強い光で見返したエコリアチはふと、振り返る。しかし、彼は暗闇を睨み付けてから何事も無かったかのように踵を返した。暗闇に潜んでいる者には気付けなかったようだ。
そして五人は菊田の部屋へと戻ってきた(「部屋に帰りたい……」とはエコリアチの談だ)。部屋に按摩を呼ぶという菊田に肩を竦めた エコリアチであったが、ふと部屋の空気が変わった事に、菊田の方に視線を向ける。
「なあ、エコリアチ。お前は何か知ってんのか?」
「……何を?生憎、俺はアイヌの秘湯なんか知りませんよ」
「違えよ。……人皮の事だ」
菊田の声が冗談を許さないと言うように重く鋭くなる。それに呼応するような視線にエコリアチは考えを纏めるように目を細めてから、静かに首を振った。
「俺は金塊には興味が無いから、人皮の事も知りません。俺に出来る事は指示された事をその通りに行う、それだけです。的確な指示が無いと、動けない」
未だに不満げな菊田を一瞥して立ち上がったエコリアチは傍らに畳んで置いていた外套を羽織ると片手を挙げる。
「では俺は少し出掛けます。按摩は何も知らないとはいえ、聞き耳を立てられては困る話もあるでしょう。ご注意ください」
洗練された動きで一礼したエコリアチを止める者は誰もいない。止めても無駄だと分かっているからだ。彼は優秀だ。指示された事は必ず遂行する。ただし、指示された事「のみ」を遂行する。つまり人皮について話す事を彼は指示されていないのだ。たとえ手酷い拷問を受けたとて、彼が口を割らない事が菊田には簡単に想像出来た。
旅館の廊下でふと、ため息を吐いてエコリアチは気付いた。登別に到着した時には僅かに降っていた雪が、止んでいる事に。
(銃声一発で雪崩が起きそうだな……)
窓の外の景色、一面の銀世界はまだ、静かなままで彼を見返していた。
コメント