何があっても

エノノカの集落でアシパの情報を得た杉元一行はその足跡を辿り、とあるロシア人の村に辿り着いていた。寂れた村でしかない筈なのに、どことなく嫌な雰囲気を感じ取って背筋がざわつくのをナマエは抑える事が出来ないでいた。

「……どうしたのだナマエ」

怖れを誤魔化すように一行の中で一番気安いと感じている鯉登の傍に寄るナマエを鯉登は不思議そうに、しかし当然のように受け入れる。

「何か、嫌な感じがする……。怖いです……」

ぎゅう、とお守りのように鯉登の袖口を握って身体を寄せるナマエに最初は呆れたように女がどうのと説教しようとしていた鯉登も、彼女の本気の恐怖を感じ取ったのか、その身体を護るように腕を回した。

「大丈夫だ。何があっても、お前は私が護る」

「……鯉登ニパ、」

落ち着いた穏やかな低音に少しだけさざ波を立てていた心が凪いだのか、ナマエは依然として固い表情ではあったが小さく頷いた。それに鯉登も気を良くして、彼女の頭を慈しむように撫でる。優しい手付きにナマエの顔が緩むのを見て、鯉登も満足げに微笑んだ。

とは言っても本当は口にしないだけで鯉登も気付いていた。寂れた、人もそれ程いないような農村の癖にやけに刺々しくてそれでいて纏わりつくような悪意が自分たちを見ている事に。しかし今それを口にすれば傍らの少女は余計に怖がってしまうだろうと思うと鯉登は口を噤むしか無かったのだった。

ざっと村を歩き回って見つけた酒場にいよいよ乗り込む。中は薄暗かったが、目の良いナマエには逆光で影になっている男たちの顔ははっきりと見えた。いずれの男もあまり感じが良いとは言えず、ナマエは及び腰になりながらもせめて見た目くらいは毅然としていようと、表情を整える。

しかしながら月島の通訳があっても大した情報は得られず、しかも杉元が乱闘を起こしたせいで酒場での情報収集は徒労に終わってしまった。酒場を後にする事に少しだけ安堵を感じていたナマエだったが、一瞬何か視線を感じた気がして振り向いた。触れたら切れてしまうような、身震いするくらいに鋭い気配だった気がするのに、しかしながらそれは一瞬で消えてしまっていて首を傾げながらもナマエは再び前を向いて先を行く仲間たちの後を追った。彼女の背中を見つめる視線にも気付かずに。

それからも手分けして、幾人かの村人に聞き込みを行ったが、やはりロシア語の話せないナマエでは目立った成果は上げられず、彼女は項垂れながら集合場所へと歩を進めていた。その途中に丁度、エノノカたちの犬ぞりを待たせていた場所に通りすがって、ナマエは何となく引き寄せられるように犬の様子を見ているエノノカに近付いた。

「エノノカ」

「あ、ナマエ」

「犬可愛いね」

「そうでしょう?私たちの家族だよ」

エノノカの隣で行儀良く待機している犬たちを暫し眺めるナマエであったが、不意に地面を踏み締める小さな足音に気付いてそちらを向いた。そこには一人の男が立っていた。男はまさかナマエに気付かれるとは思っていなかったのか少し驚いた顔をしたが、随分人の好さそうな笑みを浮かべて三人(ナマエとエノノカとエノノカの祖父に)近付いてきた。

「こんにちは」

月島に教えてもらってロシア語の挨拶だけは聞き取れるようになっていたナマエではあったが、それでもそれ以外の会話は聞き取れない。男はエノノカと彼女の祖父に対して立て板に水の如く言葉を掛ける。やけによく喋る男だと、ナマエが不審に思い始めてきた頃だった。やはり小さな足音を彼女の耳は捉えた。

「あっ!何してるの!!」

足音の方に目を遣ってナマエは大声を上げる。そこにいたのは犬の手綱を切ろうとする男だったのだから。気付かれた男は舌打ちしたものの、慣れた手つきで手綱を切断すると犬一頭を抱えて走り去っていく。全く手際の良い一連の動作に、暫く呆けていたナマエだったがはっと我に返ると走り去った男の後を追う。背中の方でエノノカの声が聞こえたが、ナマエの足が止まることは無かった。

***

犬ぞりのリーダー犬とナマエが行方不明である事を聞いて焦る杉元一行であったが「お喋りロシア人」の出現によって、彼女と犬の居場所はすぐに分かった。そこは先ほどの酒場だった。

「っ、ナマエさん!」

扉を開けてすぐ、見慣れた浅葱鼠の髪と琥珀の瞳が見えて、杉元以下一行は安堵のため息を吐く。しかしながら後ろ手に拘束されて落ち込んだ様子で唇を噛むナマエの恰好はただ事ではなく、杉元一行と酒場の主人との間に緊張が走る。

「テメエ……、さっさとナマエさんと犬を返しやがれ……!」

怒りで歪む顔をそのままに、殴り掛かろうとする杉元を制したのは意外な事に鯉登だった。怜悧な顔で、しかし焦りの色を見せない鯉登にナマエは今更ながら自分のしでかした事の大きさを思い知った。鯉登は冷静なのではない。激怒が顔に出ていないだけなのだと気付いて。

「んだよ!止めんじゃ、」

「月島、訳せ。犬も彼女もすぐに返せと。……でなければ生まれて来た事を後悔させてやる」

軍刀をちらつかせて、鋭い目で男たちを睨む鯉登の言葉を月島はそのまま訳したのか、彼らの間に走る緊張は俄かに激しいものとなる。それなのに項垂れて唇を噛む事しか出来ない(或いは状況を悪くさせるばかり、とでも言うべきか)自分が不甲斐なくて、涙すら滲みそうになるナマエであったが不意に名を呼ばれて顔を上げる。彼女の名を呼んだ鯉登は微笑んでいた。

「大丈夫だナマエ。約束した、何があってもお前を護ると。お前が気に病む事は無い、私にも良い恰好をさせろ」

「……鯉登ニパ、」

顔を歪めるナマエと微笑む鯉登の雰囲気から何かを感じ取ったのか、ナマエを拘束する男が何かを鯉登に向けて捲し立て始める。月島が顔を顰めているところを見ると碌な内容ではないのだろう。

「月島、訳せ」

「……、恋人と犬を返してほしければ、スチェンカに出ろ、と」

「は!?恋人!?」

「スチェンカ?」

動揺する鯉登を脇に、杉元たちは怪訝そうな顔をする。聞いた事の無い単語に、一番状況を分かっていそうな月島に説明を求めるが月島でさえも詳しくは知らないらしい。とにかく交換条件を突き付けて来る男たちに苛立ちを募らせる杉元たちであったが結局キロランケの情報と刺青の情報につられて参加する事になる。

肉体と肉体のぶつかり合うロシア伝統の競技に。

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