何も知らなかった頃

あたたかな何かに包まれて、ナマエの意識は微睡みの中を揺蕩っていた。左腕が時折熱く脈打つ以外は至って穏やかなその流れの中に、彼女はうしなったものを見た気がした。それが「何か」なのか、或いは「誰か」なのかは判然としなかったけれど。

ただ一つ言えることは、うしなって「悲しい」という事だけで。

そして彼女は名を呼ぶ声に応えるように目蓋を押し上げた。眩しく目を差す光に涙を滲ませて、覗き込んで来る顔を認識しようと目を瞬かせた。そこにいたのは鯉登であった。彼は眉を寄せて、ナマエを抱え込むように自身の外套で包み、横抱きにしていた。察するにどこか安静に出来る場所に彼女を運ぼうとしていたのだろう。

「鯉登ニパ……」

「っ、目が覚めたのか?大丈夫か?止血はしたが、まだ動くな」

僅かな安堵と多大な憂いを綯い交ぜにした表情で、鯉登はナマエの顔を覗き込む。それでもナマエがこくり、と一つ頷くとその憂いも少しは払拭されたのか彼は短く息を吐き出した。

「あの、人は……?」

「あのロシア人か?今は杉元が対応している」

「あの人、尾形の事、知ってた……!あの人の許に、連れて行って……!」

鯉登の腕の中で身動ぎするナマエに、彼は険しい顔で首を振る。

「駄目だ。お前の怪我は軽くない。治療の方が先だ」

「大丈夫!全然痛くないし、私は……」

「駄目だと言っている!!」

ばし、と耳を打つような怒声だった。それはナマエが、彼女が初めて見た、鯉登の「本気の怒り」だった。温情などどこにも無い、ただ感情に任せた怒声。終ぞ聞いた事のないその大声に、じんじんと痺れる鼓膜を持て余して、ナマエは唇を震わせた。ナマエの慄きに気付かなかったのか、或いは気付いていてそうしたのか、鯉登は彼女をそっと床に降ろした。これ幸いと身を翻そうとしたナマエだったが。

「っ……!」

行く手を塞ぐように鯉登の手が突かれ、更に退路を塞ぐようにもう一方の進路も彼の手によって阻まれた。完全に囲われる形で身動きの取れなくなったナマエの表情を覗き込む鯉登の顔が近付く。それはまるで、親密な男女の影のようで。咄嗟に顔を背けたナマエを許さないと言わんばかりに、鯉登の左手が彼女の頤を優しく、しかし有無を言わさず持ち上げた。

「……っ、鯉登、ニパ……ッ……」

「どうして、」

困惑しきりの顔で鯉登を見つめるナマエに、彼は薄く笑った。それは平時であれば場を和ませる事に一役買ったかも知れなかったが、この不穏な状況下では、ナマエの不安を増長させる物にしかならなかった。

「どうして、このような事を、と思っているのだろう?」

彼は微笑んだまま、ナマエの答えを促すように軽く首を傾げた。背の高い鯉登の事を見上げる形となるナマエは、彼の瞳を見て、背筋の粟立ちを感じた。その昏い瞳を、彼女は知っている気がした。

「鯉登ニパ……」

「いつか私は言った。『どうしてこちら側に付かないのだ』、と」

それは彼女も覚えていた。初めて鯉登と二人きりの空間で話したあの夜の日。囚われの身で不安で一杯であったナマエに、鯉登は彼なりに優しさを見せてくれた。それが一体どうしたというのであろう。

「あの時は、単に利害計算も出来ない阿呆だと思っていた。そして今、同じ事を問おう。どうして、お前はこちら側ではない?」

鯉登の顔がゆっくりと近付いてくる事が、ナマエにはとてもゆっくりに見えた。それが何なのか、彼女はもう知っていて、咄嗟に目をきつく瞑った。拒絶のつもりだった。それは彼女にとっては、尾形にのみ許された行為だったからだ。しかし。

「…………私と共に、来い。……頼む、ナマエ……」

しかし、ナマエにとっては全くの予想外であった。すとん、とその場に膝を突いた鯉登は彼女の耳許に唇を寄せ、強く、強く、彼女の小さな身体を掻き抱いたのだ。弱々しい言葉は懇願にすら聞こえて、ナマエは彼の腕の中で行き場のない手を握り締めた。

「どうして、尾形なのだ。どうして望んで苦難を歩む?私はお前を、もう二度と、大切な誰かを、喪うのは嫌だ……!」

絞り出すような叫びに、ナマエの感情も絞られたように軋んだ。それはきっと、鯉登からの最後通牒なのだと彼女は何となく気付いていた。あの日、尾形と別れた時に、彼は鯉登に何事か囁いていた。

――満鉄

意味は分からなくてもそれが鯉登にとっては何かとても重要な意味を持ち、そして、鯉登だけでなくナマエやその周囲にも影響をもたらす物であるのだろう事だけは理解出来た。そしてナマエが尾形の足跡を追う限り、鯉登とはいずれ別離してしまうのだというとも。

「鯉登ニ……」

「少尉、何処です!?」

「っ……。……月島、ここだ!」

しかしながら、彼女が彼の問いに答えを出す前に、階下から仲間たちの声が聞こえてきて、鯉登は僅かに息を呑みはしたが何でも無かったように彼女を解放してその声に応えた。

「行こう。月島たちが捜している。怪我の手当ても、しなければ」

振り返って、誘うようにナマエに伸ばされた鯉登の手を、彼女は取る事が出来なかった。ただ、今だけは傷の痛みに逃げてしまいたいと思った。誰の気持ちも、知らなければ良かったと、そう思った。

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