大泊に到着して陸に下りてもナマエの地面は暫くの間揺れていて、芯を失ったようにふらふらとしている彼女を鯉登が可笑しそうに笑った事に気付いたナマエは唇を尖らせた。その表情にナマエが拗ねてしまったと思ったのか鯉登は少し彼女の機嫌を取るように、「少し座って休んでいろ」と自身の大荷物を背凭れにする事を提案した。
「鯉登少尉……大荷物過ぎますよ。置いて行きなさい」
「無理だ!必要最低限だぞ」
他の面子に比べて明らかに荷物の量が多い鯉登に苦言を呈す月島とそれに反発する鯉登の声を聞きながら、ナマエは鯉登の提案をありがたく受け入れて彼の荷物に背を預けた。
「……?」
しかし彼の荷物から妙な音と気配がするのは気のせいだろうか?何か生き物の呼吸のような音と、人の蠢くような音が。
「あ、あの……、鯉登ニシパ?」
「どうした?」
「……荷物に、何か生き物を入れてますか?」
怖々と聞くナマエに鯉登が不可解な顔をしたところを見ると、彼女の問いの答えは否なのだろう。そうなると途端に自身が背を預けているものが怖くなってナマエは勢い良く背を預けていた荷物から離れて、その持ち主の傍に駆け寄る。
「オイ、中確認しろよ」
「はあ!?どうして私が!?つ、月島!」
「嫌ですよ。持ち主なんだから鯉登少尉が責任持ってください」
「無理だ!噛み付いて来たらどうするんだ!」
「お前の荷物だろ、お前で開けろよ」
「何だと!おい!谷垣何とかしろ!」
「は!?」
杉元の声を皮切りに、お前が開けろ、いやお前だと散々荷物開封者の擦り付け合いをした結果、見かねたナマエが開けようとするのを押し留めて結局元々の荷物の持ち主である鯉登が開封する事となった。それこそ蹴り開ける勢いで。ちなみに鯉登は荷物を開けた瞬間身を翻して月島の背に隠れた。
「っ、チカパシ!?」
自身の壁であった谷垣が驚いたような声を出した事で、ナマエは彼の背からそっと顔を出して荷物の方を覗いた。(彼女は危険があってはいけないという事で、大柄な谷垣の背に隠されていた)そこにいたのは一人の少年と一匹の犬であった。長い間暗闇にいたせいか、陽光に涙を滲ませて、物珍しそうに辺りを見回している。
「どうするんだ。子供を連れて行く余裕は無いだろう」
眉を顰める月島が少年を北海道に送り返せと言えば、少年は帰る場所が無いと言う。結局谷垣の監督下に置かれる事を条件に、チカパシも一行に加わる事を許されたのであった。同行の許可を得たチカパシは嬉しそうに谷垣に纏わりついていたが、ふと、ナマエの存在に気付くと戸惑いを露にした。その表情は明らかに、ナマエの身に起こった事について幾らかは聞き及んでいるようであった。
「ナマエ……、」
おずおずとナマエに声を掛ける少年にナマエもおずおずと相対する。彼の顔を見ても彼との記憶は何一つ、ナマエには呼び起こされず、ナマエは項垂れて首を振った。
「ごめんね。あなたの事も何も思い出せない……」
次に少年の顔に浮かぶのは失望か、それか戸惑いだろうとナマエは予想していた。今までに見た大人たちがそうだったから。しかし少年は違っていた。彼は笑って首を振ったのだ。呆気に取られるナマエにチカパシは笑った。笑ってナマエの手を取った。
「大丈夫だよ、ナマエとの事、俺が覚えてるから。ナマエが思い出せない事は俺が教えてあげる。コタンにいた時、ナマエは俺に色んな事を教えてくれたからさ、今度は俺が教える番だ」
明るい朗らかな笑みにナマエは一瞬、言葉を失った。何と返して良いのか分からない訳ではなかった。むしろ返したい言葉は沢山あって、それなのに喉が機能しなくて、何より全員の前で泣き顔を見せるという醜態を晒さないようにするのに必死だった。
今までに掛けられたどんな言葉より、何故か少年の、チカパシの言葉はナマエの感情の糸を震わせた。知らずに焦っていた自分自身から余分な力が抜けたような、そんな気がしたのだ。
「……ありがとう、……えっと、チカパシ、くん?」
「ナマエは俺の事チカパシって呼んでたぜ!」
「うん、ありがとう、チカパシ」
早速入った明るい訂正にナマエも笑って言い直す。大泊に上陸した時は不安でいっぱいだったはずのナマエの心はいつの間にか、僅かでも緩んでいて彼女は未だ自分の手を握って離さない温もりをそっと握り返した。いま再び始まる旅路の入り口は、彼女に明るく開いたのである。
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