チカパシと別れ、遂に鶴見と落ち合う予定の大泊へと到着した一行は「樺太先遣隊」としての最後の夜を思い思いに過ごしていた。斯く言うナマエも例に漏れず、宿を抜け出して大泊の港から海を眺めていた。
大きな鉄の船に乗って網走からここ、樺太の地までやって来たのがつい昨日の事のように思われる。その海の向こうに北海道が、ナマエが生まれた地があり、今鶴見がこちらに向けてすぐそこまで迫っている。
それが喜ばしい事なのかどうか、ナマエには判別がつかないでいた。樺太に赴いて、アシリパは間違いなく己の成すべき事を、彼女なりの「役目」を見つけ出したように感じられた。では自分は?そう考えた時に、ナマエにはどうしても自身の考える「役目」がアシリパの考えるそれとは異なっているような気がしてならなかった。
(上手く、言える訳じゃないけど……)
ふ、とため息を吐いて宿に戻ろうとした時だった。彼女の耳が、小さな忍ぶ足音を捉えたのは。
「……誰?」
振り向いて、音のした方に鋭い視線(彼女の精一杯の)を向けるナマエに、足音の主は途端に慌てたようにその姿を現した。
「鯉登ニシパ……」
「あ、すまない……。姿が見えて……」
項垂れる鯉登にナマエは気にしていないと言うように、首を振ると僅かに口角を持ち上げて彼の顔を見た。
「何か私に用ですか?」
「その……」
何かを言い澱んだ鯉登はしかしゆっくりとナマエの傍へ歩み寄る。向き合って、ナマエは鯉登の目を見た。その目に翳る苦悩をナマエが掬い上げた時、彼はそっとその長身の膝を突き、静かにナマエの小さな身体を掻き抱いた。
「鯉登ニシパ……!?何を……!」
「私には、やらなければならないことがある……。だから、引き留められるのは今だけだ。頼む……、今ならまだ、間に合うから」
鯉登の突然の乱行に目を白黒させるナマエであったが、鯉登の言葉に動きを止める。その言葉は間違いなく、過日の鯉登の言葉の続きであった。
「鯉登ニシパ……」
「私は、軍人だ。いつだって、上官の命は絶対で、そしてそれ以上に鶴見中尉の事を信じたい。もし、お前がそれを阻もうというのなら、容赦など、するものか……」
ナマエに向けてというよりも寧ろ、自分自身に言い聞かせているかのような鯉登の言葉に、ナマエは何も言う事が出来ない。それはすぐそこに迫っている別離の気配を彼女も感じ取っているからに他ならなかった。
「そのつもりなのに……っ、頭では分かっているつもりなのに……!お前が、全てを棄てて、私の傍に居れば良いと、そう思ってしまうこの感情は何だ!?」
苦しそうに感情を絞り出す鯉登にナマエは何も言えず、ただ彼の腕の中俯くしか出来ない。鯉登にはナマエの表情は見えないのか、彼は彼女の感情を確かめるかのように、その首筋に顔を埋める。
「大切な筈なのに、どうしていつも上手くいかないのだ……?……どうして私はうしなう事しか出来ないのだ……」
抱かれる力がより一層強くなり、それは痛い程であったのに、ナマエはどうしても鯉登からの抱擁を躱す事が出来ないでいた。彼が泣いているような気がして。それは彼女の全くの気のせいかも知れなかったけれど。
「鯉登ニシパ……、鯉登ニシパは、私たちの旅はうしなう物しかなかったと思っていますか?」
「…………どういう、意味だ?」
「私は、鯉登ニシパの優しさを沢山貰いましたよ。辛い事だってあったけれど、楽しかった事も沢山ありました。それを忘れなければ、最初から何も無かったよりきっとずっと良い筈です」
「だが、結局お前は私の許へは堕ちては来ない。私の手を擦り抜けてしまうのだろう」
「それでもこうして、私と鯉登ニシパの間に絆が生まれれば、相対する者同士が手を取り合う日だって来るかもしれない。私たちの旅は無駄じゃなかった筈です」
鯉登の腕の中、静かに顔を上げたナマエは静かに両手を掲げて、鯉登の頬に添えた。
「カムイウタラ コイトニシパ エプンキネ ワ ウンコレ ヤン」
「……どういう意味だ?」
「鯉登ニシパが神様に守って貰えるように、お祈りをしたの。無事に『故郷』へ帰れるように」
「……ナマエ……」
泣きそうな顔で、唇を噛んだ鯉登の背中に、漸くナマエの細い腕が回り、赤子を慈しむかのようにゆっくりとその背が擦られる。それは確かな受容のように見えて、明白な拒絶であった。その抱擁は、鯉登が求めていた応えとは明らかに種別が違っていたのだから。それでも、それがそれこそがナマエらしいとも、鯉登はどこか深い感情の奥底で考えていた。
「……後で泣き付いても遅いからな」
「はい。分かっていますよ」
「……でも、お前一人くらいなら屋敷の女中にして匿ってやってもいい」
「あはは、ありがとうございます」
憎まれ口を叩いてもにこにこと笑って受け流されてしまう。これではどちらが年下か分かった物ではない。僅かに苦笑いを浮かべながら、鯉登はゆっくりとナマエへの抱擁を解く。夕日に照らされて、ナマエが眩しそうに目を細めた。その瞳の、狼の如き琥珀色の美しさを形容する言葉を、鯉登は未だかつて持たずにいた。そして未来永劫持つ事は無いだろうとも。
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