ナマエの記憶喪失が判明してから数時間の後、樺太へ向かう算段をしていた杉元にもその一報は伝えられた。少なからず動揺する杉元に鶴見は無機質な表情を向ける。面白くもないと言わんばかりのその表情はこの状況を鶴見が予測できなかったのであろう事を杉元に窺わせた。
「……彼女も連れて行くのかね?」
「……それは、」
当然問題となってくる問いに、杉元は咄嗟に応える事が出来なかった。確証は無くても、杉元には分かる気がしたのだ。ナマエがなぜ、記憶を失ったのか。あの夜に、彼女が何を見たのか。それを考えたら、迂闊に連れて行くとは言う事が出来なかった。これ以上ナマエが傷付く事を、彼は恐れていた。
「連れて行かないと言うのであれば、保護という名目で我々の許で預かる事も出来るがね」
「……アンタらに預けたら、何かおかしな事を山程吹き込まれそうだ」
「失敬な奴だな」
杉元が迷っているのはそこであった。連れて行く事は避けたかったが、かと言って置いて行く事も出来れば避けたい。どちらをとってもナマエに負担を強いるようで、杉元はただ奥歯を噛み締めるだけであった。何も言えない杉元を見かねたのか、或いは時間の無駄だと悟ったのか、鶴見は肩を竦めて息を吐いた。
「彼女に面会してみるかね?直にその意思を確認すると良い」
「っ、もう会えるのか!?」
「ああ。目覚めた直後は僅かに混乱していたが、今は現状を受け入れているようだ。記憶の回復は未だ見られないが、物の概念については安定していて日常生活にも不自由は無い」
鶴見の言葉に杉元は安堵の息を吐き出す。それから鶴見の先導に従って病室を出たが、何の事は無い。ナマエの病室は杉元の部屋の斜め向かいだったのだ。
「ナマエ嬢、少し良いかね?」
扉の前で丁寧にドアをノックする鶴見に杉元は逸る気持ちを何とか抑えようとする。ナマエが無事であるという事を知っていたとしても、この目でその安全を確認するまではこの気持ちは抑えようが無かった。扉の向こう側から返事をする声が聞こえるまで随分と長い時間が経ったように感じられた。鶴見が扉を押し開ける間も煩わしく、杉元は鶴見を押し退けるようにして扉の前に立った。
「ナマエさん……!」
「……あ、えっと、」
いきなり現れた怪我人にナマエは困惑しているのか怪訝な表情を隠す事が出来ない。明らかに知らない人物を見るような彼女ではあったが、杉元は構わずその姿を上から下まで見てがっくりと膝を突いた。
「え!?あ、あの……!」
「良かった……!ナマエさんが無事で、良かった……!」
突然座り込んだ男に驚いて駆け寄るその傍らにしゃがみ込むナマエを、杉元は無理矢理掻き抱く。驚いたような悲鳴も、鶴見の咎めるようなため息も杉元には聞こえなかった。相棒を失って、これ以上何かを失っていたら、心の均衡を保っていられない気がしたのだから。
「……それで、杉元。ナマエ嬢に、何か聞く事があって来たのではないのかね?」
「私に……?」
呆けたような声を出すナマエに本題を思い出した杉元は、そっとナマエを解放すると彼女に視線を合わせるようにして、その目を見た。綺麗な琥珀色は変わらないのに、その目が宿す感情は以前とは様変わりしていた。
「ナマエさん……。俺たちは、樺太に行かなくちゃなんねえ。そこにはナマエさんの記憶の手掛かりもきっとある。でも、危険な旅なんだ。辛い思いもすると思う。……でも、」
でも。その後の言葉を杉元は口にする事が出来ずに項垂れた。でも、一緒に来てくれないか。なんて、そんな身勝手な誘いを。記憶を失った事を彼女は決して責める事はしないだろうし、誰が悪い訳でも無い事くらい杉元が一番分かっていた。それでも彼女の忘れたい程の悲しみのきっかけが自分である事もまた、彼は知っていた。本来ならばどこか静かな土地でゆっくりと療養させて、記憶を取り戻させるのが彼女にとって最善である事くらい。
でも、短くない旅の中でもうナマエは杉元にとって大切な存在だったのだ。離れてしまって後悔するくらいなら、連れて行って身を挺してでも彼女を護りたかった。アシリパや白石たちと会わせてやって、また皆でチタタプさせてやりたかったのだ。
「……はい」
「え……?」
穏やかなナマエの声に杉元は顔を上げる。ナマエは穏やかに微笑んでいた。杉元ががっしりとナマエの腕を掴んでいるものだから少し困ったような顔はしていたものの、彼女は微笑んで、そして頷いた。
「私も樺太に行きます。行かせてください」
「……危険なんだ。護り切れるか分かんねえ」
「護られるために行く訳じゃないですよ」
「辛い事もいっぱいあるだろうし」
「そうしたら、あなたが慰めてください」
弱々しい杉元の声にナマエは穏やかに答える。まるで最初から彼女の意思は決まっていたとでも言うかのような、意志の強い声であった。
「……本当に良いのか?」
「はい。あなたがこの話を教えてくれた時、私の中のもやもやが一気に無くなりました。きっと、私自身がそこに行く事を望んでいるのだと思います」
その言葉に唇を引き結んだ杉元であったが、顔を歪めて無理矢理微笑みを作った。困ったような、少し苦しげな表情であったが、ナマエも同じような表情で杉元を見て頷いた。傍で見ていた鶴見もつまらなさそうに首を振ってから一言、「手続きはこちらの方でしておく」とだけ言ってその場を離れてしまった。
「……俺の事、覚えてる?」
「……ごめんなさい、どうしてここまで来たのか何も思い出せなくて。自分の名前も、教えてもらったくらいだから」
「いや、いいさ。ゆっくり思い出していけば良い」
項垂れるナマエの顔を頤を支えて持ち上げた杉元は、ふと、彼女の頬に走る傷に気付いた。それは既にかさぶたに覆われてはいたが、少し深く、跡に残りそうな傷だった。
「傷が出来てる」
「……あ、多分、銃弾が掠ったんだと思います。一度、誰かに、銃口を、向け、られて……」
ぼんやりと思考に沈み込むように黙りこくるナマエに、杉元ははっとする。その傷が誰によって付けられたのか漸く思い至ったのだ。彼女の思考を阻害するように彼は努めて明るい声を出して笑んだ。
「さて、自己紹介からだな!俺は杉元!ナマエさんは俺の事、杉元って呼んでたよ」
「え、えっと、私はナマエ、です。……よろしく、杉元」
まだ慣れていないのかぎこちなく微笑むナマエの頭を軽く撫でて、杉元は己の中の焦燥が一層強まるのを感じた。早くアシリパを見つけてナマエの記憶を取り戻さなければと。
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