いよいよ作戦決行の夜を当日に控え、ナマエたちは最後の準備に追われていた。とは言ってもナマエは監獄に侵入する組とは分かれて監獄周辺で索敵警戒する役目を与えられた訳であったが。ともあれ各人役割を割り振られ、作戦決行までの最後の時間を思い思いに過ごしていた。
緊張を隠せないように硬い表情で網走監獄の方向を見つめるナマエを尾形が見つけた時、ナマエは傷の無い掌を上に向けて遠くを見透かすような目をしていた。いつかの夜に彼女がしていた事を思い出して尾形は静かにナマエに近付いた。
「何してる」
「……あ、尾形。あはは、インカラマッの真似……」
見られた事を恥ずかしそうに苦笑するナマエに尾形は怪訝そうな顔を隠そうともせず、彼女の隣に立つ。尾形の色の無い視線とナマエの視線が絡み合って、そして自然と同じ方向を向くまで二人は何も言葉にする事は無かった。
「不安か?」
不意にかけられた言葉にナマエは弾かれたように尾形の横顔を見つめる。尾形はナマエの方を見なかったため、二人の視線が再び絡む事は無かったが、ナマエは拠り所を探すように尾形の腕に抱き着くように自身の腕を絡めた。
「……不安だよ。だって、誰か怪我するかも知れない。知りたくなかった事が明らかになってしまうかも知れない。……明日の今頃、今と同じでいられる保証なんて、どこにも無いんだもん」
仲間といた時には見せなかった少女の弱々しい姿に尾形はそっと、彼女の方に向き直る。ナマエは尾形の存在を確かめるように彼の腕を抱き、そして答えを求めるように尾形を見上げる。寄る辺無いナマエの表情に誘われるように尾形は彼女の後頭部を支え、静かに顔を近付ける。怯えるように一瞬顔を引いたナマエも、察したようにゆっくりと目蓋を下ろした。
触れ合った唇は始まりと同じように静かに離れていって、ナマエに余韻すら残さない。言い知れない喪失感に眉を下げるナマエの頬を、武骨な尾形の手が撫でていくのが妙に怖くて、ナマエは縋るように尾形の身体に自身の身体を寄せた。
「嫌な予感がして、仕方ないの。明日の今頃、今のままじゃ、いられない気がして」
震えを隠せないナマエの声音に尾形は彼女の背に手を回そうとして、そして僅かに躊躇いを見せてその手を下ろす。尾形の躊躇いに戸惑うように強張った表情を見せるナマエに、彼は目を細めて何かを考えているようだった。
「……尾形?どうしたの……?」
「なあ、ナマエ」
心配そうなナマエの声に尾形は何かを決意したかのような、硬い表情で口を開く。それは後戻り出来ない道を選択した人間の表情のように、ナマエには思えてその事が彼女の不安を増長させる。それでも尾形の声にナマエは頷きで返答した。何故だか喉が詰まって声を出す事が出来なかった。
「……お前、この金塊争奪戦から降りる気ねえか」
告げられた言葉はナマエには予想だにしない言葉だった。それは即ち旅の終わりを意味するもので、もっと言えば今まで道を共にしてきた仲間を見捨てる事と同義だと、ナマエは直感した。それなのに、何とか絞り出した言葉は「……降りて、どうするの?」という弱々しいものだった。問われた尾形もまさか逆質問されるとは思わなかったのか逡巡するように渋い表情をして、決まり悪そうな顔で目を逸らす。
「争奪戦から降りて……、どこか田舎で暮らすとかよ。伝手なら、俺が何とかしてやるから」
「……田舎って、どこ?」
「……んな事はどうでも良いんだよ。どうだ?降りる気ねえか」
それはいつもの尾形の軽口にも、冗談にも、何にも聞こえなかった。真剣味すら感じさせない声音なのに、妙に重くて、それでいて軽くて、尾形の真意など何一つ測れない、ナマエにはそう聞こえた。それでもナマエの背中に添えられた尾形の手は強張っていて、ナマエはどうしてもそれを戯言とは受け取れなかった。
「田舎暮らしかあ。楽しそうだね」
まだ見ぬ、存在するかも分からない未来を見るように薄く微笑むナマエに尾形は一瞬その瞳の色を強くさせる。それでも、ナマエはその色に気付かずに首を振って言葉を続けた。
「……でも、それをしたらアシリパとの約束を破ってしまうから。約束したんだ。最後まで、一緒にいるって」
真っ直ぐな瞳に虚を突かれたように目を見開いた尾形だったが、不意に呆れたように息を吐いて笑った。諦念の混じったようなその声をナマエは聞いた事が無くて不安げに顔を歪めるが、尾形はそれも気にならないのか自嘲的な笑みを崩す事は無い。
「……そう、か。まあ、そうだろうな」
「尾形……?」
「何でもねえ。……俺が……れたのは、そういう女だもんな」
「え?何?もう一回……」
風も無いのに不自然に途切れた尾形の声にナマエは不可解な顔で尾形の言葉を再度促すのに、尾形は薄く笑んだまま首を振るばかりだった。まるで永遠に喪ってしまったものを見るような目で、尾形はナマエの顔を真っ直ぐに見つめた後、そっと、彼女の身体をその腕の中に収めた。乱暴な抱擁では無いのに逃れる事の出来ないその抱擁はナマエの心臓を嫌な方向に高鳴らせた。
「何でもない。……じゃあな」
耳許で囁かれた言葉が今生の別れの言葉に聞こえたのは何故だろう。解放されて尾形がコタンの方へ戻って良く背中を見つめるナマエの心の内には不明瞭で不吉な感情が少しずつ肥大化していく。まるで、もう二度と、尾形と会えないのではないかという予感を、ナマエは必死に頭の中で打ち消し続けた。網走監獄潜入まで、あと半日である。
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