吹き荒ぶ雪の中で

びゅうびゅうと雪風の吹く音が耳を打ち、身体は芯から冷えていく。息を吸い込めば凍てついた空気が肺を灼いた。最早冷たいという感覚も麻痺してしまい、震える事も無い身体を抱えながら、ナマエはただひたすらに振り落とされないようにチカパシを挟んで杉元の背に縋っていた。後ろから谷垣が支えてくれているので幾分か安心だったが、それでも風を切って進む犬橇はともすれば大切な何かを置き去りにしていきそうだった。

「大丈夫か!?クソっ、前が見えねえ!!」

焦りを滲ませた杉元の声が後ろへと流れていくのを聞きながら、ナマエは必死にチカパシを自身の身体と杉元の背で挟む。身体の小さいチカパシは時折橇の揺れに振られて落ちてしまいそうになっていたからだ。

「チカパシ、大丈夫!?」

「俺は大丈夫!ナマエは!?」

吹き荒ぶ雪風がどれ程の大声をも掻き消していく。互いを気遣いながら進んでいく一行だったが、リュウが杉元の思惑とは見当違いの所に橇を引っ張って行くものだから、いつの間にか前を行く月島たちの橇も見えなくなってしまう。完全に進むべき道を見失った杉元たちに先行の月島たちが与えた銃声の導も荒々しい白いベールの中では意味を成さない。

余りの吹雪の酷さに耐えかねて一時避難をする場所を見付けようと、地面を掘ろうとする杉元と谷垣の横でナマエはチカパシに覆い被さり少しでも彼の熱を逃がすまいと抱き抱える。悴んで動きも鈍くなる身体に鞭打って、身を寄せ合った一同だったが、それだけでは熱量が足りず、引き連れた犬を抱え込む。

阿仁マタギの谷垣の知恵で、乗ってきた橇を打ち壊して暖を取るが、それだけでは長くは持たない事くらい、当然ながら誰もが分かっていた。

(…………、)

一方で杉元と谷垣という大柄な男たちに挟まれたナマエは勿論、寒さに耐えてはいたのだがそれ以上に、このような時にもかかわらず「奇妙な」感覚に支配されていた。

まるで以前にも同じような事があった気がしたのだ。ごうごうと耳を打つ雪風を、寒さの中で誰かと身を寄せ合って夜を明かした事を。

(あれは、)

幻覚のように目の前の光景と「いつか」の光景が交差しては消えていく。それはいつで、誰とどこで。きぃん、と嫌な耳鳴りのような音と共に頭が痛む。一瞬だけ、ナマエは見た気がした。光を透さない誰かの瞳が僅かに輝きを取り戻し、柔らかな形に緩むのを。その瞳に安堵した自分の感情の輪郭を。

「……ナマエも。腹の中に何か入れているのといないのでは大違いだ」

しかしその追憶の欠片を掴み、手繰り寄せるよりも先に谷垣に何かを差し出され、ナマエは現実に引き戻された。あっという間に霧散してしまった何かの片鱗を少しばかり惜しく思いつつも、彼女は谷垣から差し出されるものを受け取る。

「これは何?」

「カネ餅という。俺の故郷の保存食だ」

「そうなんだ。……ありがとう、なんか、安心する」

口に入れ、噛んでみるとそれはコシが強く、噛んでいるだけで、少し身体が温まったような気さえする。未だ現状を打開する事は出来なかったけれど、それでも束の間の安息がナマエの心を冷静にさせる。そのせいだろうか、結局彼女が感じた奇妙な感覚は失われてしまった。そしてナマエもすぐにその事を忘れてしまう。肉体を切るような風に襲われてそれどころではなかったのだ。

「なんか、……塹壕を思い出すよな、」

「寝るなよ、杉元。……寝たらまず間違いなく死ぬぞ」

頭の上で交わされる会話を聞きながら、ナマエはゆっくりと思考を巡らせて想像した。この旅の先にある、もしくは「いる」ものの事を。友人だというアシパ、裏切ったというキロランケ。それに同行しているシライシ。どの人物も、顔も思い出せないせいか近しくは感じられなかった。けれどもそれ以上にナマエには奇妙な確信があった。「もう一人いる」という謎の確信が。杉元たちはナマエの前で「彼」の事を口に出さない。まるで追いかけているのは三人であると言わんばかりに。そして今のナマエも当然「彼」の事など知らない筈なのに、それでも知っていた。当然の帰結であると言うように、まるで息をするかの如く。自分たちが追いかけているのは「四人」であると彼女は知っていた。

少しずつ、身構える事も許されずに不意に去来する自身の記憶に混乱しつつもナマエは目を見開いてチカパシの手をぎゅう、と握り締めた。目蓋を下ろせば眠ってしまいそうで。この手の力を抜けば大切な物を零れ落としてしまいそうで。

ずっと以前に、喪ってしまった大切なものを、今度は逃すまいと言うように。

「光だ……」

不意に杉元の低くて小さな声が雪原に転がった。余りに掠れたそれはナマエの耳にしか届かず、ナマエは緩慢な動作でその声の主を見つめ、そしてその視線の先を見た。ナマエの動きに気付いた谷垣も同じようにその光を捉えたようだ。ちかちかと瞬くそれは月の光とは程遠く、遂に四人は見つけたのだった。海辺にひっそりと佇む灯台の灯りを。

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