漸く双方の誤解が解けたのか、全員で集まってロシアからの刺客、もといヴァシリに事の経緯の説明を求めた一行であったが、どうやら彼は何らかの理由があって顎を怪我したせいで上手く喋れないらしい。仕方なくヴァシリの筆談を月島が訳す形で全員に説明が行われる。
どうやらヴァシリは尾形と一戦やり合って、敗北を喫した所から彼に執着しているらしい。その事に反応したのは何も杉元だけではなかった。鯉登も不必要に反応したし、ナマエに至っては挙動不審の域である。
「……ナマエ、あの、大丈夫か?」
見かねたアシリパがナマエに声を掛けると、彼女は少し慌てたように何度か頷く。しかし取り繕っているのは明白で、アシリパはそんなナマエの様子に表情を曇らせた。
「ところで……」
ヴァシリの走り書きを突き付けられた月島がそれに目を通すと、少しばかり硬い表情でナマエの方に視線を遣る。それにつられるように皆の視線が彼女に向くのをナマエは肩をびくつかせる。
「ナマエ、怪我は大丈夫なのか」
「え?あ、はい……。かすり傷だし、鯉登ニシパが手当てしてくれたから……」
質問の意図がよく見えずに深く考える事も無く返答したナマエに、月島は何事かをヴァシリに囁いた。するとそれを受けて今度はヴァシリが何事かをまた書き付け始める。一連のまどろっこしいやり取りをぼんやりと眺めていたナマエだったが、ヴァシリが月島に再び突き付けた走り書きを月島が訳してくれた事でその意図が判明した。
「かすり傷といえども、女性に傷を負わせてすまなかった、だそうだ」
「え、あ、ああ!大丈夫だよ!ちょっとびっくりしたけど。それより白石の方が重傷だし……」
「そうだぞ!俺にも謝れよ!!大体きちんと確認しろって話なんだよ!カンチガイで人の足撃ち抜く前になあ!!」
尚もヴァシリに絡む白石を宥めつつ、ナマエはちら、とヴァシリの方を見る。するとヴァシリもナマエの方を見つめていて、二人の視線が絡んだ。咄嗟の事で何も言う事を準備していなかったナマエは彼に対して曖昧に微笑みかける。
口許の覆い隠された表情の見えないヴァシリではあったが、その目許が僅かに緩んだところを見ると微笑み返してくれたのだろう。それに気を良くしたナマエは少しばかり彼に近寄る。
「あの……、名前は何ていうの?」
「…………」
「傷のせいで上手く話せないらしいぞ。ロシア語の発音はヴァシリ、だそうだ」
「……ばしり?」
首を傾げながら月島の言葉を鸚鵡返しに呟くナマエにヴァシリも月島も首を振る。
「違う。ヴァ、だ。ヴァシリ」
「……ば」
「ヴァ」
「ヴ…ぁ…」
何度発音しても、ヴァシリの名前を上手に紡ぐ事の出来ないナマエであったが、結局、彼は「頭巾ちゃん」で収まってしまう事となった。「折角あと少しで言えるようになったのに……」と不満げなナマエだったが、結局一度も彼の名を上手く口にする事は出来なかった。
それから、燈台守の老夫婦にスヴェトラーナからの手紙を渡し(感極まって月島に抱き付く夫婦にナマエは貰い泣きした)、一行は豊原で鶴見隊と合流するまで待機となった。
「それでは各自好きに過ごせ」
一応一行の中では上官の立ち位置にある鯉登による音頭で各々四方に散っていく中で、彼はきょろきょろと辺りを見回しているナマエに声を掛けようと近付こうとしたのだが。
「あ、頭巾ちゃん……。やっぱりついてきてたんだね」
鯉登が近付いている事には気が付かなかったのか、足早にヴァシリの方へと駆け寄るナマエに、彼は唇を噛んで伸ばそうとしていた手を握り締めた。ナマエとは、鯉登が抱え切れない己の感情を吐露した時からまともに話していなかった。避けられているような気もするし、ただ単に頃合いが悪かっただけのような気もする。それでも、それを問い質す事はどうにも勇気が振るわなかった。
***
「頭巾ちゃん」
ぼんやりとしているのか、或いは抜け目なく辺りを窺っているのか定かでは無いが(おそらく後者だろうが)、殆ど微動だにせずに突っ立っているヴァシリに、ナマエはゆっくりとしかし足音を刻みながら近付く。
ヴァシリも気付いていたのか、ゆっくりと首を巡らせてナマエを視認する。そしてそれがナマエだと分かると少しばかり目を細めて彼女に向かって手招きした。
「……何?」
首を傾げてヴァシリに近付くナマエに、彼はポケットから取り出した紙切れを、一葉の写真を、静かに差し出した。
「あ、これ……頭巾ちゃんが持ってたんだったね……」
それは尾形とナマエが写った件の写真であった。ヴァシリはそれをナマエの手にしっかりと持たせる。
「返してくれるの?……ありがとう」
少し困ったように眉を下げながらも、写真を受け取ったナマエを眺めていたヴァシリであったが、不意に不思議そうに写真に写る尾形を指差す。
「尾形だよ。お、が、た。もし出会っても仲良くして欲しいなあ」
「…………」
ヴァシリの指は次に写真を持つナマエへと移る。それが表す意味を理解したのかナマエは微笑んだ。
「ナマエだよ。ナマエ。よろしくね」
言葉は通じなくともナマエの言わんとしている事は理解できたのか、頷くヴァシリはそれから写真の尾形と目の前のナマエを交互に指差す。その意図している所をナマエが量りかねていると、ヴァシリはどこからか鉛筆を取り出して写真の裏側にたった一語を書いたのだった。
любимый、と。
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