遂に国境を越えた一行は敷香にて必要な物資を買い出すために各方面に散っていた。ナマエも随分と減ってしまった薬などの消耗品を買い付けに薬問屋へと足を運んでいた。樺太では薬を消耗する一方だったためか、今までに溜めた路銀の殆どを買い付けに使ってしまったナマエに伴をしていた白石は目を丸くした。
「一杯買ったね」
「そう、だね。……役に立たないかも知れないけど」
淡々と、感情を押し殺したようなナマエの発言に白石は唇を引き結ぶ。もうずっと、ナマエはこんな状態だった。あれだけ明るくて、無理をしてでもいつも笑っているような少女は今や感情の抜け落ちた人形のようだった。俯きがちで、長い睫毛に縁取られた瞳は感情も生気も抜け落ちて、疲れ切っていた。亜港の医者の診療所で体力は回復したかも知れなかったが、彼女の気力は間違いなく、削られているのだろう事は窺い知れた。
「早く行こう、シライシ。皆待ってる」
陰りを帯びた瞳に見つめられて、白石は頷く事しか出来ない。少女に追随して集合場所へ向かおうとした時だった。不意に、ナマエが立ち止まり振り返った。
「うわ……」
「あ、ごめん……。なんか、誰かに見られている気がして」
急に立ち止まった彼女にぶつかりそうになった白石に詫びつつも、訝しそうに辺りを見回したナマエだったが、当然辺りにはそれらしき人物は誰もいない。諦めたように肩を竦めたナマエに白石も苦笑する。
「怪しい奴には気を付けろよ?ナマエちゃんは可愛いからさあ」
「うーん……、そうだと良いね……」
眉を下げて困ったように微笑むナマエの髪を崩さないように撫でてから、白石はふと違和を感じた。
「ナマエちゃん、ハチマキは?」
「ハチマキ……?……ああ。マタンプシの事?この間汚しちゃったから」
「代えは無いの?」
「あれしか持ってないんだ。刺繍、苦手だし、教えてくれる人もいなかったから」
透明な、ガラス球のような瞳が細まって、笑みの形を作る。優しくて、それでもそれ以上は踏み込ませないような表情だった。白石も曖昧に頷いて、ただ「そっか」と、そう言っただけだ。ナマエも僅かに安堵した表情を見せ、彼に「行こう」と促した。集合場所は存外離れておらず、目と鼻の先だった。一つ通りを挟んだ向こうで、チカパシたちが手を振っている。
その時だった。
「っ、白石!!」
破裂音がナマエの耳を打った時には、彼女は白石の肩を押していた。聞き慣れてはいない、しかし聞いた事のあるその音が銃声であると分かるよりも先に、ナマエの二の腕が熱を帯びる。一つ遅れてまた破裂音が聞こえ、白石からも苦悶の声が上がり、彼は蹲った。狙撃されたのだ。
「ナマエさん!?」
「ナマエ!!」
通りの向こうから杉元たちの声が聞こえる。咄嗟に彼らを制止したのは正解であった。精密な狙撃が何処からか、自分たちを狙っている。そしてそれが誰なのか考えた時、ナマエは血管が膨張したような気がした。
「尾形だ!もう、尾形が戻ってきた!!」
その言葉が、誰の言葉であったのか、ナマエにはもう、どうでも良かった。知らずに口許が緩んでいることにも気付かずに、彼女はふら、と一歩を踏み出した。戻ってきた。その言葉が頭から離れなかった。戻ってきて、くれたのだと。
「ナマエちゃん!!」
白石が手を伸ばして制止するのにも構わず、彼女はまた一歩を踏み出した。狙撃は、無い。しかし月島や鯉登の陽動には針の穴を通すような狙撃が降り注ぐ。その隙にナマエは駆け出した。もう、見えていた。「彼」がどこから狙撃しているのか。自身を制止する声も聞こえずに、ナマエはそこへ向かう。道を挟んだ対角線上にある邸の二階。ナマエにはもう見えて、聞こえていた。
――迎えに行く
その言葉を、ただひたすらに反芻していた。時を戻せるのなら、網走監獄へ侵入する日へと。何度も思った。あの日、あの時、尾形の確かな前兆に、どうして気付かなかったのかと。
「っ、尾形!!」
何度も躓きながら階段を駆け上がり転がり込むように、襖を抉じ開けたナマエを振り返る男がいた。表情は、口許が覆われているせいか判然としなかった。ただ、その爛々と光る眼は彼女の求めていた者とは余りにも乖離し過ぎていて、彼女は唇を震わせてぺたりと尻餅をついた。
「だ、れ……?」
「…………。……!」
言葉を発さない男であったが、ナマエに向けて、僅かに一歩を踏み出す。伸ばされた手に、ナマエが慄いて身を引いた時だった。
「…………」
眦を静かに拭われて、彼女は唇を噛み締めた。それは確かな落胆だった。目の前の、名も知らない男の存在に、彼女は明白に落胆していたのだ。涙は後から零れ落ちて、男の指先を濡らす。男は静かに、ナマエの白い頬を流れる涙を拭い続ける。そして徐に、上着のポケットから、一枚の紙きれを、否、一葉の写真を取り出した。
「…………」
「こ、れ……」
それは廣瀬寫眞館で撮られた、ナマエと尾形のあの写真であった。目を見開くナマエに、男はそっと、写真のナマエを指差し、それから目の前の彼女を指差す。それから写真の中の尾形を指差した。
「あなたも、さがして、いるの……?」
男の言わんとしている事が理解出来たのか、ふるふると首を振ったナマエに男は僅かに目を細める。そして彼は狙撃銃を構えた。最早用済みになった自分を……、と身を竦めた彼女であったが答えは違ったようだ。ナマエの耳でなくても聞こえるくらいの大きな足音が二つ、邸の中に入り込んでくるのが聞こえた。その足音が、杉元と鯉登のものだと気付いた時には、彼女は足元の地面が揺らいだかのように、蹲った。熱い左の二の腕からの失血を止めるのを忘れていたなあと、場違いな感想が、彼女の頭の中を流れて消えた。
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