船酔い仲間

港に繋留された船を見上げて目を丸くするナマエを杉元は微笑ましく眺める。恐る恐る船腹に触れてその感触や揺らぎに驚いたのかすぐさま手を引っ込めるナマエは、杉元が自分の事を見つめている事に気付いて耳まで顔を赤らめてそっぽを向いた。

「……ナマエ」

不意に二人の背後から声が聞こえて、振り返ったナマエと杉元の視線の先には浮かない顔のエコリアチが立っていた。腕を負傷した彼は先遣隊への同行を鶴見に禁じられ、直前まで食い下がっていたのだが当然認められるはずもなく、北海道に居残る手筈となっていた。

「あ、えっと……、にい、さん……?」

まだぎこちなく兄を認めたナマエにエコリアチは困ったように微笑んで、長身の膝を折って彼女と目を合わせた。その顔は妹と離れ離れになることのみを憂いているようには杉元には見えなくて、二人だけの時間を作ってやろうと彼は二人から少し距離を置いた。

「ナマエ、本当に行くのか?」

「うん……。行かないといけない気がする」

「待ってるんじゃ、駄目なのか?」

「自分の目で確かめたい」

何を言っても彼女の意思は変わらないと、エコリアチは悟ったのだろう。やるせなさそうに笑った後、彼は静かにナマエを抱き締めた。その抱擁は一瞬でナマエが何かを言う前に彼は、エコリアチは離れて行ってしまう。ナマエはただ、離れて行くその背中を見送って僅かに思い出した。その背中を、以前も見送った事がある事を。

***

ナマエが乗艦するのを舷梯で待っていた杉元はいきなり肩を掴まれて振り返らされる。狼藉に顔を歪めてその腕を振り払おうとしたが、振り返って相手の顔を確認して拍子抜けした。それはエコリアチだったのだ。唇をへの字に結んだ彼は何も言わずに杉元を睨み付ける。喧嘩でも売られているのかと杉元が睨み返せば、エコリアチは肩を落として俯く。

「あのさ、」

「お、おう……」

沈んだ声のエコリアチについ、身構えてしまう杉元だったが、エコリアチは杉元を確りと見据えて口を開いた。

「ナマエの事、お願いします。記憶なんかどうでも良いから、無事に帰してくれ」

真摯な黒灰色の瞳はナマエの物と色こそ異なっていたが光の強さは同じだと杉元は思った。そう思って、確りと頷いた。杉元の返事に僅かに安堵したように表情を緩めたエコリアチだったが、思い出したように唇を引き結ぶ。それは一見すると恐怖の表情にも見えた。

「……それから、あの子をキロランケには近付けないでくれ」

「、それ、どういう……」

「きっとナマエは、キロランケに縋られたら負けてしまう」

意味深な言葉を与えられ、杉元がその意味を問い質そうとするよりも先にナマエが舷梯に現れる。途端に相好を崩したエコリアチの変わり身の早さに杉元は呆れざるを得ない。

「ごめんなさい、準備出来ました」

「あぁ……、ナマエはやっぱり北海道に残ろう?な?」

「大丈夫だってば。それに、今度会う時はちゃんと思い出して『兄さん』って呼びたいから」

微笑んで別れを惜しみ合う兄妹を前に杉元はエコリアチの言葉の意味を問い質す事は終ぞ出来ず仕舞いであった。

***

樺太までの船旅はナマエが想像していたよりもずっと負担の大きい物であった。そもそもアイヌは鉄の船に乗る事など滅多に無く、記憶が無くてもナマエにとってはこれが初めての船旅だろうと彼女は確信していた。おまけに地面はぐらぐらと揺れて、定まらない視点は眩暈にも似た症状を引き起こす。最初は楽しかった海原の景色も単調となってしまった今ではどことなく気分の悪さの方がずっと意識の根底に置かれているような状況だった。

「……気分が悪いのか?」

冷たい風に当たっている方が気分も良いだろうと甲板に出ていたナマエに不意に声がかかったのは出発してから四半刻も経った頃であった。振り返ればそこにいたのは褐色の肌をした軍人であった。見覚えがあるような、無いような、どっちだったかとナマエがまじまじと彼を見つめれば男は決まり悪そうに顔を顰める。

「ひ、人の顔を、そうじろじろと眺めるんじゃない!不躾だぞ!」

「あ……、ご、ごめんなさい……」

「ま、前にも言っただろう!……っ、あ」

ナマエに記憶は無かったが、男はナマエを知っているようだった。つい、口を突いて出た言葉に彼自身が狼狽えているようだ。男は取り繕うように言葉を探している。

「あ、その……、記憶を失くしたんだったな。……すまない」

「い、いえ!大丈夫です!えっと、」

「鯉登だ。鯉登音之進という」

まるで自分事のように項垂れる鯉登に首を大きく振ったナマエは、どんよりとした空気を纏っている彼を窺う。しょげ返った鯉登の片方の手には写真が一葉握られていた。鶴見の写真だ。

「鶴見ニパと離れたくなかったんですか?」

「え?……ああ、まあ、そうだな」

肩を落とす鯉登にナマエはそっと彼の手許を覗き込む。紛う事無き鶴見のブロマイドに、ナマエは何と言って良いのか分からず顔を引き攣らせる。それでも、ふと思い付いた事を口にした。

「好きな人から頼られるって、素敵な事ですね」

「……え?」

呆気に取られたようにナマエの顔を見つめ返す鯉登にナマエは穏やかに笑って見せる。

「鶴見ニパは鯉登ニパの事を信じているから樺太に送ったのでは?信用していない人を危険な場所に送るのは怖いです」

「……本当に、鶴見中尉が私を?」

「は、はい、きっとそうだと思いますよ」

実際の鶴見の心中などナマエに推し量れるものではなかったが一応頷いたナマエに、鯉登は若干気分を良くしたのか表情を明るくさせる。その時大きく揺れた船体によろめくナマエの身体を鯉登は思わず支えた。

「っ、ありがとうございます……」

「かなり揺れるな。……気分は大丈夫か?」

鯉登の問いにナマエは少しだけ首を振る。吐く程ではなかったがとても良い気分とは口が裂けても言えなかった。そういう鯉登の顔も僅かに青褪めていて、彼も気分が良いとは言えないらしい。

「こんなに大きな船に乗ったのはきっと初めてです。地面が揺れるのが変な感じがして……。鯉登ニパも船が苦手なんですか?」

「…………うん、まあ、そうだな」

何かを思い出すように、少し苦い顔で笑いながら鯉登はただそれだけを口にしてナマエを解放する。あまり調子が良さそうではない鯉登にナマエは自分の気分の悪さも忘れて口を開く。

「スキの根は吐き気止めになります。飲みますか?」

「……スプキ?」

「シサムは、ヨシと言っていました」

「雑草じゃないか」

「違います!立派な薬草です!」

唇を尖らせて頬を膨らませるナマエに鯉登は悪戯っぽく笑う。それから目を細めて、穏やかな顔でナマエの頭を撫でた。

「大丈夫だ。お前と話していたら少しマシになったから。お前は大丈夫か?」

「……鯉登ニパと話していたら、マシになりました」

「お揃いか」

「お揃いですね」

顔を見合わせて微笑んで、鯉登は少しだけ辺りを見回してから、ぎこちなくナマエの背に手を添える。不思議そうに鯉登を見上げるナマエに照れたように、或いはばつが悪そうに喉の奥で咳払いした彼は言い訳がましく言葉を紡ぐ。

「また船が揺れたら鈍間なお前は転げてしまいそうだからな」

「掴まっているからこけませんよ」

「つべこべうるさい奴だな!お、大人しく支えられていろ!」

何故怒られているのか判然としない顔のナマエであったが、鯉登の剣幕に流されて慌てて頷く。それから大泊に到着するまで何となく思い出したように鯉登と会話しながらナマエと一行は遂に樺太の地に降り立ったのであった。

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