記憶の断片

アシパを捜すための聞き込みを続ける一行であったが、記憶を失っているナマエが大した戦力になる事も無く、ただ杉元の後ろをついて歩くだけの状況であった。杉元がアシパの写真を見せながら(何故か一部谷垣の写真が混ざっている。露出が多い)聞き込みをするも手掛かりは少なくて何度目かの空振りにナマエが落胆の息を吐いた時だった。

(あれ、鯉登ニパ……?)

鯉登の姿が見えなくなって、ナマエはきょろきょろと辺りを見回す。漸く見慣れて来たその背中がとある建物に消えていくのを見つけたナマエは誘われるようにその背を追いかけた。

「鯉登ニパ……?」

恐る恐る、扉を開けて建物の中を覗けば、そこはどうやら店のようであった。入り口でまごつきながら鯉登の姿を捜すナマエに聞き慣れた声が掛けられたのはすぐであった。

「どうしたのだ、ナマエ」

「こ、鯉登ニパ!勝手に離れちゃ駄目です!」

ナマエの気も知らないで悠々と何か飲んでいる鯉登に彼女は精一杯厳しい顔を作ってみせる。しかし鯉登は彼女のそのような顔など意に介さないとでも言うように微笑んでナマエに手招きした。

「ナマエも飲んでみろ。中々美味いぞ」

「話、聞いてますか?今頃皆探して……、」

「まあ、良いから」

ほとんど無理矢理口許に押し付けられた液体からは甘酸っぱい香りとそれから酒の香りが混ざった匂いがする。酒など飲んだ事も無いナマエだったが、グラスを押し付けられて咄嗟に開いてしまった口に流し込まれる液体を吐き出す事も出来ず、飲み込まざるを得なかった。

「……っ、これ、お酒、!」

「フレップワインというらしい。悪くないだろう?」

「もう、良いから戻らないと……!」

鯉登を急かすようにグラスを持たない方の彼の手を掴んで引っ張ろうとするナマエであったが、それよりも先に月島が二人を見つける方が早かった。一行の中で唯一鯉登の手綱を握ることの出来る月島の姿にナマエの顔が明るくなったのを見た鯉登は面白くなさそうに鼻を鳴らす。

「鯉登少尉、困りますよ。勝手にあちこち歩き回らないでください」

「なんだ月島、何か用か」

「『何か用か』ではありません。我々はアシパを捜しにここまで来た訳であって、」

鯉登を咎めるように諭す月島に鯉登は不満そうに唇を尖らせてそれを聞いている。明らかに拗ねている様子の鯉登に月島の後からついて来て合流した杉元は苛立ったように彼を睨んだ。

「遊びに来てるんじゃねえんだ。勝手な真似するんじゃねえよ」

杉元の苦言もどこ吹く風で、二杯目のワインに口を付けた鯉登であったがはたと気付いたようにグラスから唇を離すとあっと言う間もなく杉元の服目掛けて、残りをぶちまける。

「こ、鯉登ニパ!?」

「気を付けろよ杉元ぉ。フレップワインは服に付くと落ちんらしいからなあ」

あわあわと杉元と鯉登の顔を見比べるナマエの手を握り返しつつ、にやりと口端を持ち上げた鯉登に杉元の顔が一気に険しくなる。彼を押し留めようと声を掛ける谷垣に構わず、店の給仕にグラス一杯のワインを注文した杉元がそれを飲み干して残ったグラスを鯉登に投げ付けた時、ナマエはもう半べそであった。

「いい加減にしてください、鯉登少尉。杉元も。……ナマエが怯えている」

呆れたように言葉を挟んだ月島にはっと下を見た二人の視線に肩を揺らすナマエは怯えたように鯉登の手を振り払うと、庇ってくれた月島と気遣わしげなチカパシの方に身を寄せる。明白な拒絶に目を見開いて衝撃を受けている鯉登には目もくれず、杉元はナマエに視線を合わせるように屈んだ。

「……ごめん、ナマエさん」

「……私に謝る事じゃないでしょう?早くアシパちゃんを見つけないと」

「……、そう、だな」

俯いて視線を逸らしたまま、早口でそう呟くナマエの声音は硬い。親友だと言われた少女の事を、ナマエは未だ写真の中でしか知らないのだろう、その困惑が滲み出ているようであった。もどかしさばかりが募って唇を噛む杉元であったが、ふと店の給仕の視線がナマエとチカパシに向けられている事に気付いた。

「あんたたち、アイヌの子?今日はこれで三人よ」

漸く得られた手掛かりに、全員の目が輝くのがナマエにも分かった。一度鯉登と杉元の間で小競り合いがあったがそれでも店の給仕から得られた情報によると、「アイヌの少女」が魚を売りに来て、アイヌの集落へと帰って行ったというのだ。

喜び勇んで給仕の指し示した方向へと走って行く杉元を追いながらナマエは何となく、複雑な気持ちを抱えている事を自覚していた。もしアシパという少女が見つかったとして、そこには何かとても怖い事が待ち受けているような気がして仕方なかったからだ。ナマエが記憶を失ってしまった原因が、そこにあるような気がしてならなかった。そして彼女はまだ、その原因を受け入れる準備が出来ていないような、嫌な不安を抱いていた。

狭い街道を先へ先へと急ぎ、その先で出会った御者からついさっきアイヌの少女とすれ違ったという情報を聞いた時、ナマエの不安は最高潮になって足は根を張ったように動かなくなっていた。この先に行くのが怖いと、感情が拒否をしているような。それでも一行は待ってはくれない。離れていく背を必死に追いかけて仲間から少し遅れて辿り着いた先にいたのは、一人の少女だった。アイヌのようではあったが、どことなく「自分とは違う」という感覚にナマエは自分の中の不安が引き潮のように一気に引いていくのを感じた。

「……ちがう、」

ぽつ、とナマエの口から漏れ出た声は落胆ではなかった。それは安堵に近い音であった。当然だ、ナマエは確かに安堵していたのだから。記憶を失った原因の可能性については彼女は既に鶴見から聞いていた。耐え切れない苦痛が自分の記憶を食い潰してしまったのかも知れない事。その苦痛が何であるのか、今はまだナマエは知るのが怖かった。勿論いつかは目を向けなければならない事なのだろうが、それでもそれと向き合う覚悟を昨日今日でする事は出来なかった。

「あなたたち、北海道のアイヌ?私、会ったよ。北海道のアイヌの女の子!」

頭を殴られるような感覚がした。目の前が真っ白になって、立っていられないくらいの衝撃を受けたような気分だった。ずきずきと痛む頭に無理矢理何かを流し込まれるように、ナマエの頭の中に情景のような細切れの光景が浮かぶ。

白い狼、鬱蒼と生い茂る山の木々、そして青い瞳。

断片的な光景は自分の記憶の欠片なのだろうと、ナマエは滲む視界の中で確信した。それでも頭痛の酷さは止まらなくて息をするのも苦しいぐらいで、堪らずその場に膝を突く。慌てたような杉元と鯉登の声が重なる中、不意にリュウの吠える声が辺りの空気を裂く。

揺らぐ視界の中、ナマエは見た。羆が荒々しくこちらに走ってくるのを。逃げなければ、と立ち上がろうとして、谷垣に無理矢理後ろに突き飛ばされる。よろけて尻もちをついたナマエにも漸く現状把握が出来た。羆は襲ってきたのではなかった。それ自身が「襲われていたのだ」。

小さくて、見た目はそれ程狂暴でもなさそうな「それ」に、明らかにリュウが警戒している。しかしながら「それ」のその見た目に油断したのか、鯉登はゆっくりとそれに近付く。

獣の息遣いが変わった。

ナマエの耳はそれをはっきりと捉えて、警告を発しようとしたがそれよりも獣の動きの方が早かった。その小さな足が地を蹴って、小さな口に隠れていた鋭い歯が剥き出しになって鯉登の肩に突き刺さる。

「なっ、なんだぁ!?」

堪らず身を伏せる鯉登になおも食らい付こうとする獣を蹴り飛ばした月島であったが、その獣の次の標的に目を見開く。そこにいたのは未だへたり込んで動けずにいたナマエだった。ナマエ自身立ち上がろうとしていたのだろう、中途半端に腰を浮かしていてどう見ても素早く動ける態勢ではなかった。

「ナマエ!!」

鯉登の大声に肩を揺らすナマエだったがただ、獣が己との距離を詰める様を見ているしか出来なかった。

「っ、きゃあっ!!」

咄嗟に己を庇うように出したナマエの腕に獣の牙が深々と突き刺さる。そのままの勢いで仰向けに倒れてしまった彼女に矢のように駆け寄ったのは鯉登であった。

「クソ、ナマエ!!」

振り払うように獣をナマエから引き離し、彼女の身体を抱きかかえる鯉登の青褪めた顔を、彼女は薄らと開けた目で見た。尚も執拗にナマエを狙おうとする獣であったが谷垣と杉元の発砲により狙いを樺太アイヌの少女に変える。それをチカパシが何とか庇ったところで、月島と杉元の連携により獣との距離を離す事に成功し一行は兎にも角にも走り出した。

「こいと、ニパ……」

「黙っていろ!舌を噛む!」

ずきずきと痛む腕から止め処なく溢れる血液のせいだろうか。ナマエの意識は朦朧として身体が冷えていくような気がする。元々寒い外の空気が更に冷たくなった気がしていつの間にかナマエの意識は暗闇に引き摺り込まれていった。

コメント