追憶

目を閉じたままのナマエを横たえても、鯉登がすぐに彼女から離れる事はなかった。彼自身背中を負傷していてそれは軽傷ではないにも関わらずだ。それなのに鯉登はエノノカからの治療もそこそこに、まるで自分が彼女の傷さえも背負いこむかのように、酷い顔をしながらもただ粛々と彼女の傷に治療を施していた。

「鯉登少尉、あなたもちゃんとした治療を受けてください」

「……いい。ナマエの治療がまだ終わってない……」

見かねた月島が鯉登の事を制しても、鯉登は静かに首を振ってナマエの傷に止血を施す。傷からの出血はもうほとんど見られず、少なくとも彼女が失血死することは無いだろうと、鯉登が安堵に息を吐いた時だった。

「……、ぅ」

微かな呻きと共にナマエの目蓋が震えて揺らぐ琥珀が薄らと現れた。状況を把握するように一度瞬いたその瞳は目の前の鯉登と月島の姿を認めたのか落ち着いたように、その色を和らげた。

「私たちが分かるか?」

「こいと、ニパ……、つきしま、ニパ……」

しめやかな問いかけにナマエは小さく頷いて小さく答えを返した。その答えに満足するように頷いた鯉登は彼女の眦に僅かに浮かぶ涙を親指の腹でそっと拭った。

「痛かっただろう。もう大丈夫だ」

「ごめんなさい……、何も出来なかった上に、迷惑かけて、」

身を起こそうとするナマエを制止する鯉登であったが、彼女はその制止を振り切るように起き上がる。鯉登の止血でほとんど止まっていた出血が僅かに始まったのか、ナマエのアットゥに紅の染みが少し広がった。

「おい、また出血が、」

「大丈夫?手当てするね」

「あ……、ありがとう、」

気遣わしげにナマエの肩を押して横たえさせようとする鯉登の後ろから、例の樺太アイヌの少女、エノノカがナマエの顔を覗いていた。エノノカの手には何か皮袋に入った軟膏のようなものが握られていて、ナマエはエノノカの言葉に頷いてゆっくりと纏っていた衣服を脱いだ。

勿論鯉登と月島のいる目の前で。

咄嗟に目線を逸らす月島であったが、鯉登は予想もつかなかったのか目を見開いて硬直している。見様によっては少女の脱衣を凝視しているように見えてしまう鯉登の姿に(本人は心外だろうが)月島は慌てて鯉登の顔を逸らさせた。

「……、あの、別に大丈夫ですよ。下にまだ何枚か着ているし……」

「ば、馬鹿!だからと言って急に脱ぐ奴があるか!」

「え、ええ?」

首を傾げながらも胸元を寛げたナマエはゆっくりと袖から腕を抜いてその白い肌を露にした。頑なに目を逸らす月島に鯉登が目隠しをされている事には特に言及せず、ナマエは黙ってエノノカの治療を受け入れる。

「熊の油?」

「そう、怪我に良いんだよ」

「でもやっぱり臭いはきついんだね」

くすくすと顔を見合わせて笑い合うナマエとエノノカだったが、不意にエノノカの目がナマエの腕のある一点で止まる。エノノカのその視線を追うように辿ったナマエは納得したように微笑んだ。

「ナマエ、傷がある……」

「何!?」

「あ!ちょっと、鯉登少尉!」

腕の一部とは言え、肌も露わな状態のナマエに食らい付かんばかりの勢いで、鯉登は彼女の腕を覗き込む。呆れたような月島のため息を背後で聞きながら、ナマエは困ったように微笑んだ。

「傷があるっていってもこれは随分昔の傷で……、」

それはナマエの左腕、クズリにつけられた上腕の傷とは違いもう出血もしていなければ、痛々しく口を開いてもいない。ただ薄らとそこに傷があった事を証明するだけの跡となった二の腕に走る傷跡をナマエは不思議そうになぞった。

「どこでこんな大きな怪我をした?女が傷を作るなど……」

「え?……えっと、確か、『バラトで少し』……、?」

首を傾げながらナマエは脳裏に過ぎる言葉をそのまま呟いた。訝しげに目を細める月島も鯉登も、彼女の返答には納得していないようであった。

「茨戸?旅の途中でつけたのか?」

「え?それにしては古いような……?」

「だが、お前はこの旅以前は小樽から出たことは無いと聞いていたが?」

「……え?あ、あれ……?何で、だろ……?頭の中に、『腕の傷は茨戸で』っていう言葉が思い浮かんで……。あ、あれ?なんで、」

自分で自分の言っている事が理解できないのか困惑しきりのナマエに、確信を得たように顔を顰めたのは月島であった。月島は困ったように首を傾げるナマエを手を上げて制止した。

「無理に思い出す必要は無い。どの道お前は記憶を失っているのだから、大方伝聞の記憶と自分の記憶を混同しているんだろう」

「そう、なんでしょうね……。でも、何でしょう……、この事はとっても、大事な……」

「む、無理に思い出す必要は無いのだ!大切な記憶なら、自ずと思い出すだろう」

虚ろな顔で記憶の海原を惑うように目を細めるナマエに何かを察したのか鯉登が月島に追随するように言葉を発する。その言葉に思考を阻害されたのかナマエの瞳に現実的な色が戻って来る事を、ただエノノカは不思議そうに眺めていた。まるでナマエから何かを隠すように不自然な程に顔を見合わせない大人たちの顔を。

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