少しずつ、新月の日が近付いてくる。それに伴って、一行の中には妙な連帯感が生まれ始めていた。特にナマエは尾形と少しばかり打ち解け直した事もあって精神的な負担が取り除かれつつあったが、それでも一つだけ、喉に引っかかった魚の小骨のようにしこりとなって内に残るものを彼女は感じていた。
「ナマエちゃん」
ぼんやりと、騒ぐ集団の輪を離れて宙を見つめていたナマエの意識を引っ張ったインカラマッは周囲の気安い雰囲気に心を許しているのか、白い頬を薄く染めて穏やかに微笑んでいた。美しい微笑みだと嘆息したナマエはインカラマッのその顔を見つめて、そして声を掛けられたことを思い出して首を傾げた。
「何?」
「いいえ、少しぼんやりしているみたいだったので。……疲れているのですか?」
心配そうにインカラマッの白くて細い指先がナマエの頬に触れる。ナマエはただ、ぼんやりとされるがままインカラマッの顔を瞳に映していた。何の感情も見せないナマエの表情に怪訝な顔をするインカラマッに、少女ははっと意識を取り戻すように、琥珀色の瞳に生の色を見せた。
「ごめん……、ぼうっとしてた……」
「本当に大丈夫ですか?疲れているのなら……」
気遣わしげに眉を寄せてナマエの顔を覗き込むインカラマッであったが、ナマエが首を振った事で口を噤む。尚も浮かない顔で抱えた膝に顔を埋めるようにして遠くを見つめるナマエの頭をインカラマッはそっと撫でる。
「何か、悩みがあるようですね」
「……悩み?……ああ、そうか、悩んでる、かも」
納得したようにインカラマッの顔を見たナマエにインカラマッは微笑ましそうに頬を緩める。ナマエの柔らかな頬に撫でるように触れたインカラマッはすっと目を細める。
「悩んでいる事にも気付いていなかったのですか?」
「……そうみたい。おかしいね」
眉を下げて笑うナマエにインカラマッは心配そうに眉を寄せる。少女の無理な笑顔が妙にインカラマッの目に付いた。
「……尾形さんの事ですか?」
「へっ!?え、な、なんで知って……!……あっ!いや、ち、ちが……!」
インカラマッにしてみればナマエの事を見ていればすぐに分かる事を口にしただけだったのに、大仰に狼狽える彼女に苦笑を禁じ得ない。インカラマッのその微笑みを見て隠し立てできないと観念したのか、ナマエは薄紅に染まる頬を隠すように俯いて小さく頷いた。
「……自分で自分が分からないんだ」
ぽつりと呟いたナマエの言葉にインカラマッは静かに同調の態度を見せる。インカラマッの言葉無き返答に安堵したように、ナマエは少し微笑んでそれから次の言葉を探すように口を僅かに開いた。
「尾形の事は、好きって思うよ。大切だし、怪我もして欲しくない。でも、それってインカラマッが谷垣ニシパに感じているのと同じ気持ちなのかな?私は杉元にも白石にもキロランケニシパにも他の皆にも同じ事を感じてるのに?」
純粋な疑問の瞳がインカラマッを見る。ナマエはそれから少し恥ずかしそうに「インカラマッは?谷垣ニシパは他の人より特別?」と聞いた。興味を抑え切れないその瞳の輝きが、少女の年相応さを強調する。
「そう、ですね……。谷垣ニシパは、私の運命を変えてくれた人ですから」
「そっかぁ……、特別だね」
「ええ。ですが私から見ていれば、尾形さんもあなたの特別のように思えますが?」
インカラマッの言葉に不思議そうに目を瞬かせるナマエに、彼女は微笑ましそうにその小さな頭に手を乗せた。髪を梳くように撫でれば、ナマエは擽ったそうに顔を緩める。
「触れているだけで、見えますよ。尾形さんと一緒にいる時のあなたの安堵。きっと尾形さんも同じだったのでは?」
「……安堵?」
「はい。あなたの心は安らいで、凪いだ湖面のようです。そこには焦りも不安もありません。爆発的な恋情、というよりはもっと穏やかな、愛情と言うのでしょうか、そのようなものを感じます」
インカラマッの言葉を反芻するように呑み込もうとするナマエの横顔を見て、彼女は微笑ましさに感情を握り締められたような気分になった。まるで年の離れた姉か、或いは少しばかり気は早いが母親にでもなった気分だった。ナマエは思い当たる節でもあったのか、小さく頷きながら嬉しそうに目を細めた。
「うん、そうだね。尾形といると、安心するよ」
「そうでしょう?ほら、尾形さんはあなたにとって特別な存在ではありませんか」
ナマエの返事に得意そうに返すインカラマッに少女は仄かに躊躇うように彼女の袖を引く。インカラマッが穏やかに微笑みながら言葉を促せば、ナマエは小さく言葉を発した。
「…………最初に会った時の事、覚えてる?」
「ええ。私はあなたには強い結びつきを持った運命の方がいると占いました」
昨日の事のように思い出せる苫小牧での光景にインカラマッが答えると、ナマエは目を伏せて微笑んだ。嬉しそうな恥ずかしそうな、いずれにせよ可愛らしい横顔にインカラマッも微笑ましい心持ちになる。
「あのね、あの時は分からなかったけどね、今なら私の運命の人は尾形が良いなって思うの」
「ふふ、運命をご自分で選択されるのですか?」
「そうだね。本当は占ってもらおうかと思った時もあったけどね、運命の人が尾形じゃなかったら嫌だから止めとく」
悪戯っぽく笑ったナマエにインカラマッも可笑しそうに笑い返す。占いも何も、最初から、二人を見た時からインカラマッには全て見えていた。 気付かれないと思っているのか事あるごとに「彼」に視線を送る少女の事も、気付かれないように彼女の視線が途切れた時を見計らって視線を送る「彼」の事も。
「ええ、どんな運命も占いも絶対ではありません。……私が良い例です」
「良かったぁ。変えられない運命があったらどうしようって、とても気になってたから」
安堵したように顔を緩め、口許を綻ばせたナマエはそして決意の色を瞳に見せた。琥珀の瞳に輝く固い意志にインカラマッも静かに頷いた。
「この作戦が終わったら、伝えようと思ってる。今思ってる事全部。たとえ尾形が私の事をどう思っていても」
「応援していますよ。……きっと全てが上手くいくように」
顔を見合わせて微笑む二人に、周囲の喧騒は気付かなかったのか夜は静かに更けていく。今はまだ少女の僅かな安息の時間を、インカラマッは願うばかりだった。
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