かつて、それから

銃声の聞こえる方向に向かってナマエはただ走っていた。息が上がって限界を迎えてもただ走った。止まって仕舞えばもう動けなくなる事が分かっていたからだ。

手と足を動かして、必死に前に進んだ。それしか出来ない事を知っていた。自分には、何も出来ない事を知っていた。それでも誰かのために何かをしたいと思った。

***

遠くから母の姿を見ていた。その人を母と呼んではいけないと教えられていたけれど、ナマエはその人の事を母と呼んでいた。

その人はナマエを生んでから身体を悪くしたと聞いていた。よく床に臥せっていて、ナマエがその顔を真正面から見た事はとても少なかった。

その人はとても悲しい人だと聞いていた。初めてその人の身の上に起こった事を聞いた時、ナマエは悲しくて怖くて、夜眠る事ができなかった。

だから己が嫌われるのは当然だと思った。本当は愛して欲しいと願っていたけれど、それが叶えられなくても仕方ないと知っていた。

「あ!」

ふら、とその人の身体が傾いだ。立ちくらみでも起こしたかのようにその人はその場に蹲った。何も考えずに、ナマエの身体は動いていた。その人に駆け寄って、触れる。母の温もりに、初めて触れた。

「大丈夫、ですか?」

「ぅ、」

母親とは、温かい体温を持った、人なのだなあとナマエはその時知った。見ているだけで、触れた事が無かったから知らなかったのだ。ずっと触れていたいと思った。この温もりに抱かれて夜を超えたいと。

でもその願いが叶わない事も知っていた。あ、と思った時には強く身体を押されていた。その人の目に映るのは恐怖と憎しみだった。

「触らないで」

***

「っ!」

目を見開いた。嫌な汗をかいていて、袖で拭った。どうやら束の間の眠りに落ちていたようだった。

あの後仲間たちに見つけられたナマエは全てを聞いた。暗号解読の手掛かりが分かった事も、それを鶴見も知った事を。

項垂れるアシパに寄り添って、ナマエは己に出来る事は何か、考えていた。鯉登は己を遠ざけたようだったけれど、一人だけ安穏を選ぶ事は出来なかった。

アシパや仲間たちと共に列車に乗った。ナマエは負傷した仲間たちの治療に当たり、アシパは暗号解読をしている。

今はひと心地ついて交互に休息を取っていた時だった。その夢は紛れもなくナマエの過去であった。今までずっと忘れていた事だったが。

「ナマエ?」

ナマエの顔色に気付いたのか、エコリアチが顔を覗き込んでくる。その顔は心配そうに歪んでいる。

「兄さん」

「大丈夫か?酷い顔色だ」

額に骨張った指が触れる。兄の温もりにナマエは気持ち良さそうに目を細めた。

「平気。でも少し、兄さんに話したい事がある」

「俺に?なに?」

ナマエの話の内容を悟ったのかは定かではないが、エコリアチは仲間の様子を窺い距離を取ろうとする。ナマエもそれに続く。

向かい合ってナマエは久しぶりに兄の顔を正面から見た気がした。兄はいつもナマエの隣に寄り添ってくれていたから、その横顔しか見た事がなかったのだ。

「随分遠くまで来たね」

「そうだな。ここまで色々あった」

ナマエの言葉に頷くエコリアチには全て分かっているのだろうか?ナマエが何を言いたいのか。

「あのね、兄さん。旅の中で、私は決めたんだ。色々あって、決めたの。この旅が終わったら、私は一人でコタンを出て行くって」

「…………、」

沈黙が二人の間に落ちる。エコリアチは静かな表情でナマエの言葉を聞いていた。ナマエも静かな表情でエコリアチの顔を見ていた。

「私はずっと、兄さんに甘えてた。兄さんがコタンを捨てて二人で生きてくれるって言ったから、それで良いって思ってた。でも、兄さんが家族を捨てる事を悩んでるのも知ってた」

「…………ナマエ、」

「私のせいで、兄さんに家族を捨てて欲しくない。私が家族が欲しいからって、兄さんがそれを捨てるのは間違ってる。兄さんは兄さんの選択で兄さんの人生を歩んで欲しい。私が、そう決めたみたいに」

感情が昂って涙が溢れそうになるのをナマエは目に力を入れて誤魔化した。伝える事が出来て良かったと思った。これから、最後の戦いに向かうのに何一つ心残りを残しておきたくなかった。

「そっか」

安堵のような揺れる声を聞いた。ナマエは兄がそんな声を出すのを初めて聞いた。ナマエの前での彼はいつもどっしりとした落ち着いた男だったからだ。

「ナマエは見つけたんだな。大切な人や未来を」

「兄さんがいてくれたから、だよ。私の事をいつも想ってくれてた。いつも、どんな遠くからだって」

「いつだってお前の幸せを願ってる。たとえどんなに遠く離れたって。これからも、ずっと」

微笑んだナマエをエコリアチは抱き締めた。親愛の情を込めて、たった一人の妹の行く末を祝福して。それは昔、彼女が生まれた時にエコリアチが感じた想いと同じだった。彼はずっと、それだけを抱えて生きてきた。

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