久しぶりに、夜、湯屋へ行った。何もする事が無かったからだ。皆が仕事をしている時に、私一人何もしていない事で何となく店に居づらかった事もあった。
時間を掛けて身を清めていく。音様は明日来られると仰っていたから、特に入念に髪の手入れをする。早く会いたい、そう思ったら自然と顔が綻んだ。
髪を乾かして、護衛として付いて来てくれていた男衆を連れて店に帰ろうとしたけれど、背中に視線を感じて振り返る。そこには「彼」がいた。目が合っていたから、「彼」も私の存在を認識していたのだろう。でも、「彼」は私を呼び止める事も無く、ただ私の目を見ていた。
隣に誰も連れていない「彼」は、絢爛な灯りのついたここでは異質に見えた。見ないフリをして帰る事も出来たのに、どうしてか私は近くに男衆を待たせて「彼」に近付いた。「彼」もまさか、私が近付いて来るとは思わなかったのか、目を見開く。
静かに向かい合った私たちの隣を下卑た笑い声が通り過ぎる。私たちの間の空気の方が、ここでは酷く奇妙な物に見えた。
「…………身請けの予定があるんだってな」
近付いたは良いが、何を言おうかと迷っていたら「彼」の方から口を開いた。その言葉に静かに頷く。それから少し考えて言葉を付け足した。
「……旦那さまには、ずっと良くしていただいたからご挨拶しなきゃと思っていました。遅くなってしまってごめんなさい」
私の言葉を聞いた「彼」はとても、無表情だった。感情を意図的に押し込めているのではないかと思ってしまうくらいに。馴染みの遊女が身請けされていなくなる事なんてそう、珍しい事ではないだろうから、きっと特に何も感じてはいないのだろう。それ以上「彼」が口を開く気配が無かったので、一礼して、男衆の許へ戻ろうとした。
「…………なあ、」
背後から呼び止められる。返事をして振り返った。どうしてだろう。さっきまで、「彼」の表情は店々の灯りで良く見えていたはずなのに、急に曖昧になってよく見えなかった。それでも、「彼」には私の顔が良く見えていたらしい。振り返った私を、私の顔を、「彼」はじっと見ていた。その目に焼き付けるように。
「…………いや、何でもねえ。……なあ。餞別に、俺の名を呼んでくれねえか」
どれくらいの時間見つめられていただろう。ぷっつりと糸が切れるように視線を外されて、乞われた言葉に戸惑った。「彼」の気分を、害してはいけないけれど、でも、それは。
「あの、でも、私、旦那さまのお名前は、」
褥では与えられなかった名を、呼ぶ事は出来ない。そして、私がそこで呼ぶ名前はこれからも音様の名前だけだろう。
私が困ったように眉を寄せたのが見えたのだろうか。「彼」は僅かに動揺したように、視線を揺らした。それから、深く深く息を吐いた。まるで何かを諦めるかのように。
「ああ…………、そうか。そう、だったよな」
落胆のような言葉に、「彼」と会うのは、これが最期なのだろうなと、漠然と感じた。もう二度と「彼」と会う事は無いのだろうと。そう考えたら、曖昧な寂しさが僅かに感情を揺らした。
「…………旦那さま、」
「…………じゃあな。『あの人』みたいに、ならないと良いな」
私が何かを言うよりも早く、「彼」は私に背を向けて去って行った。不思議な言葉を残して。私はその背が人混みに紛れてしまうまで、見送っていた。その背が見えなくなって、待ち草臥れた男衆が私に声を掛けるまで、ただひたすらに、立ち尽くしていた。
コメント