地獄行きの切符

白布を纏い流氷の上を行く。何度か振り返っても追手は影も形も見えず、ナマエは漸く僅かに安堵の息を吐いた。しかし安堵ばかりもしていられない。追っ手は撒いたかも知れなくても、進む道に何が出て来るかなど分かった物ではないのだから。

可能な限り目を凝らして、耳を澄ませて生き物の気配を探ろうとしているナマエをヴァシリが目の端に一瞥する。その視線の音に気付いたとでも言うのだろうか。ナマエも同じ瞬間に彼の方を見た。

音が鳴るように合わさった視線にナマエは肩を揺らして視線を逸らせる。少々不自然な逸らし方であったが、ヴァシリは気にする事も無くまたその鋭い視線を前方に向けた。

心臓が早鐘を打つのを、ナマエは抑える事が出来なかった。何故か、は何となく、分かっているような気がした。ヴァシリに抑えきれない尾形への想いを吐露してから、彼女はヴァシリと尾形を似てもいないのに混同しそうになっていた。

狙撃手特有の足運び、身のこなしが隣を歩くナマエにそのような感情を抱かせるのであろうが、ナマエにはそれは奇妙な既視感にしか映らず、彼女は時折、ヴァシリに対して「尾形」と呼び掛けそうになる事を既の所で押し留めた事がもう何度もあった。

(尾形……)

この集団だから言葉にしないだけで、彼女はもう何度も尾形の事を、この集団の中では明確な「敵」に当たる男の事を想い描いていた。彼には感情を掻き乱されてばかりいた事を。掻き乱されてどうしようもないのに、それでも彼を想う感情を止められない事も。今までずっと別たれていて、しかも記憶すら失っていたというのに、全てを思い出した今、その感情はより強くより深く彼女の中に根差していた。

迎えに来ると彼は言った。それは恐らく最後通告だ。次に見える時が最後の選択の時なのだとナマエは思っていた。次に見えた時、自分が尾形を取るのか、アシパを取るのか。その二人の手を同時に取る事は最早不可能であろうと、ナマエは不明瞭に覚悟していた。

親友の傍にいたい気持ちと、心の内の真なる想いに従いたい気持ちが鬩ぎ合う。どちらも強く、ナマエにとっては真実だ。選べない、しかし選ばなければならぬ。そう遠くない、未来に。

(どちらかを選べば、もう片方が)

敵となって立ちはだかってしまうのだろうか。その声無き迷いと恐れは固く閉じた彼女の唇から零れる事は無かった。

***

まだ疲弊している身体を叱咤して、彼は、尾形は手近な着物を失敬できる家を探していた。薄着の病院着では長くは耐えられない事に彼は早々に気付いていた。というより気付かざるを得なかった。雨露を凌ぐ場所も無いこの地において、暖を取る事は正しく死活問題であった。

手近な家の庭先に干してある洗濯物から己の身体に合いそうな物を物色している時であった。不意に気配と共に足音が聞こえる。

「何をしているのかね」

それは老爺であった。彼は何処からどう見ても負傷者である尾形を見てかなり怪訝そうな表情をしている。面倒事になる前に殺してしまおうと彼が一歩を踏み出そうとした時であった。

「入りなさい。外は冷えるだろう」

す、と身体を引いた老爺が尾形を家の中に招き入れる。今度は尾形が怪訝な顔をする番であった。しかし老爺は何も言わず尾形を置いて家の中へと引っ込んでしまう。今ならば手ごろな服を手に入れて本土へと、ナマエの許へと向かう事の出来る絶好の機会だというのに、尾形の身体は何故かその意思とは裏腹に招かれるがままに、その邸に足を踏み入れていた。

そこに住んでいるのは先程の老爺と老婆の二人きりのようであった。老爺はその夫人に何事か言い付けると部屋の隅で立ち尽くしている尾形を手招く。

「服を用意しよう」

不信感を拭えない尾形に老爺は一瞬悲しそうな目を見せたが尾形はそれには気付かなかった。ついて来るように言われて、渋々老爺の背を追う尾形が連れて来られたのは誰か歳若の者が使っていた事を想起させるような部屋であった。

「息子の物で済まないがね」

そう言いながら洋服箪笥の抽斗を開ける老爺の悲しみに尾形はようやっと気付いた。全て古いのに、新しさすら感じられる程埃一つ無いその部屋の主はもうこの世にはいないのだと、尾形は知った。その感傷を貰い受ける事は無かったけれど。

服を着替え居間らしき部屋に戻るとそこには温かな食事が並べられていた。そう言えば丁度夕食時であったなと思う端から尾形の腹の虫は正直に鳴いた。

「食べなさい」

言葉少なに尾形にそう勧めると、老爺と老婆も食卓を囲む。もしや食事の途中だったのかと尾形は彼らを観察する。察するに毒などは入っていないだろうと見た彼は箸を取ると存外丁寧な仕草で食事を始めた。

食事の間中、部屋は静かであった。きっとこの家にかつて住んでいた者が居た時には賑やかであったのだろう。そんな事を考えながら尾形は箸を進める。ふと視線を感じてそちらを見ると、老婆と目が合った。

「あら、ごめんなさいねえ」

老婆は少し困ったように眉を下げた。尾形が首を振るとそれを肯定と捉えたのか老婦はやや目を輝かせた。

「ごめんなさいねえ。あなた、『あの子』に似ている気がして……。同じくらいの歳かしら」

しみじみと遠くを見つめるような顔の老婆に老爺は何も言わない。ただその目が少し遠くなっただけだ。

「先の戦争かい」

「……ええ。お骨も殆ど帰って来なかったわ。可哀想に、祝言を挙げたばかりだったのよ。その娘も他所へ行ってしまったわ。いつまでも未亡人じゃあ可哀想だからって」

視線を落とす老婆はしかしそっと尾形を見つめる。亡き息子との共通点を探すかのように。

「こんな事聞かれては不躾だろうけれど、あなた、故郷に大切な人はあって?」

老婆の不意の質問に老爺が窘めるように咳払いをする。それでも尾形にはその考えを止める事は出来なかった。大切な人と、今まで認めるのが怖かった。それでももう、その感情を無視する事は到底出来なかった。

「……ああ。いる。……存在全てが欲しいと、そう思う」

口にした瞬間それは確かな想いとなって尾形の中に根差した。その手を必ず取りに行く。隻眼に浮かぶ固い決意の色を老爺は目を細めて見るだけであった。

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