背中の温もりは私をとても安心させる。耳許に落とされる声は低く落ち着いていて、いつもなら官能を呼び起こすのかも知れないけれど、それは安堵に包まれていた。
「なまえは何がしたい?どこに行きたい?」
「何の事ですか?」
首筋に音様の吐息が当たって擽ったい。少し身を捩れば音様が喉の奥で笑う気配がした。
「後少しでここから出て、私と共に暮らすのだ。今まで出来なかった事や行けなかった所もあったろう。何か希望は無いのか?」
お腹の前で組まれた骨張った大きな手が優しげな手付きで私の身体の稜線をなぞる。いやらしさを微塵も感じないその動作に胸が温かくなる。悪戯に彼の手を捕まえれば、音様は私の好きにさせてくれた。
「したい事、行きたい所……」
「何でも良い。どんなに些細な事でも、どんなに大きな事でも。……何でも言って欲しい」
思考を巡らせて考えてみる。したい事、行きたい所、それ自体は沢山あった。指折り数えてみる。
「私とても欲張りですよ。だって大人になってから遊んだ事が無いの。甘い物も好きだから、以前お客様から頂いた花園公園のお団子もまた食べたいわ」
「うん、良いな。全て書き出してしまって一つずつ消化していこう」
音様はとても綺麗な顔で笑ってくださった。それにとても安堵して、私は一つ思い出したように付け足した。
「でも、ここを出たらまず一番に『あの場所』に行きたいわ」
「あの場所?」
不思議そうに首を傾げる音様の目を、振り返って見つめる。私の視線と音様の視線が絡まり合って、私たちはさっきより境目無く溶け合ったような気がした。
「覚えてますか?私たちが『初めて』出逢った場所の事」
音様の目がゆっくりと丸くなる。大きな手が優しく、私の頭を撫でた。とても愛おしいものを見るような目で、音様は私のこめかみに唇を落とした。
「…………覚えている。私がなまえに救われ、なまえが私に救われた公園だろう?」
「そうです。あそこには、家族の大切な思い出があったのよ。そして、私を救ってくれた音様との思い出も。あそこは私にとって、生きる勇気を貰えた場所だわ」
お腹に回された手に力が籠る。音様のお顔が見たくて振り返ろうとしたけれど、残念ながら押し留められてしまった。
「……そんな所が、一番で良いのか?」
言葉だけだと誤解してしまいそうだけれど、音様の声は震えているのが隠し切れていなかった。何かを堪えるように私の身体を強く強く抱き締めて、音様は私の項に唇を押し当てた。
「あそこが良いの。私たちはあそこから始まったのですもの」
口にしてしまったら、随分心が軽くなった。そうだ、私は、私たちはあそこから始まった。あの日あの時あの場所で、もし私たちが出逢わなかったならば、きっと今、私も音様もここにはいなかっただろう。細く、それでいて運命付けられたような巡り合わせの奇跡を、私は今、確かに神に感謝した。
「私は私の新しい人生を、またあそこから始めたいです。……勿論、音様がお許しになるなら、ですけど」
「……なまえのしたい事は、何だって叶えたい。それが例え小さくても大きくても。……約束だ。この店を出たらその足で、あの公園へ行こう。なまえの思い出を教えてくれ。私も私の思い出を話すから」
大きな身体から伝わる温もりが、私を酷く安心させた。生きていて良かったと、強く強く思った。
「あの日、私を救ってくれたのが音様で良かった。私が出逢ったのが、音様で本当に良かった」
「それは、こちらの台詞だ。あの日出逢ったのがなまえだったから、私は今、こうして生きているのだから。なまえが生きていて良かった。私が恋をしたのが、なまえで良かった」
そこにはただ、二つの温もりがあって、決して一つになった訳ではなかったのに、どうしてだろう。一つになってしまった時よりももっとずっと、温かくて心安らぐのだ。きっと相手が音様だからだろう。ずっとこうしていたいと思った。この人と永遠に生きていきたいと思った。
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