初めて会った時、私の事だけを見てくれた。父の事も、私のステイタスの事も、私の見てくれの事も何一つ口にしなかった。ただ、お天気の話をして、最近読んだ本と、お友達の話を少し。最初は猫を被っているのだと思っていたけれど、次に会った時もお天気の話と読書の話と最近話題の活動写真の話をしただけ。
それからもずっとそうだったから、彼は私という存在そのものを見てくれていたのだと、柄にも無く胸が高鳴った。
だから何としてでも彼を手に入れたくて、お父様に私の将来についてお話をした。つまり私の将来の旦那様になる方の事を。お父様は全く気の無い素振りで相槌を打っていたけれど、相手が花沢勇作さまだと知ると少し目を細めて考える素振りをした。
「なまえは勇作殿の事を好いているのかね」
面と向かって恥じらいも何もあったものじゃないが、お父様は確かに前向きに検討してくれそうだったので強く頷く。
「初めてお会いした時から、こんな方が旦那様だったら良いのにって思っていましたわ」
満足そうに笑むお父様がどう策を回したのか分からないが、数日後には勇作さまとのお見合いの席が設けられていた。
卓について向かい合う。花沢閣下の表情は正直な所読み取れなかった。師団長の子息と高々中隊長の息女では格の釣り合いが取れないのではないかと危惧していた。それなのにお見合いの席が設けられてしまった事に私は少し緊張していた。
簡単な挨拶に親同士の会話。私は少し俯いて投げ掛けられた言葉にだけ反応していた。一度だけ勇作さまの方を盗み見たけれど、彼は少し困ったように笑っていた。
いつの間にか「あとは若い者同士で」と要らない気遣いをされ、勇作さまと二人きりにされる。いつもなら考えなくても回る口が、貼り付いたように声が出なかった。
「なんだか、改めてだと緊張しますね」
困ったように勇作さまが眉を寄せて頬を掻く。私も控えめに頷いて、「わたくしも、です」と何の足しにもならない言葉を吐いた。何を話そうかと、酷く迷った。こんな事今までなかった事だった。
「……、そうだ。なまえさんは最近何か読まれましたか?」
「…………そう、ですね。少し前の作品ですけれど『たけくらべ』を読み返しました」
唐突とも言えるくらいの話題を振った勇作さまに私もぎこちなく返事をする。いつものように可愛らしく見えるように振る舞う事が出来なくて、戸惑いが大きい。それでも勇作さまは私が話題についてきたことに安堵したのか表情を明るくする。
「ああ、なまえさんはやはり恋のお話がお好きですね。以前も感想をお聞きしましたから」
「女の子で恋のお話が嫌いな子なんていないわ。そう言う勇作さまは何か読まれましたか?」
「私はやはり『ロビンソン・クルーソー』です」
「まあ、勇作さまだって冒険小説がお好きなのね。もう二回も、そのお話の事を聞きましたもの」
くすくすと笑いを溢してしまうと、勇作さまも照れたように微笑む。それからまるで見てきたようにロビンソン・クルーソーの勇敢な冒険についてお話ししてくれた。私もそれに相槌を打ち、切ない恋のお話とそれに揺れる主人公の内面についてお話をした。
とても、楽しいと思った。何の含みも無い、思うままに発する事の出来る言葉たちは、全くもって重要ではないのに、私の心の内に確かに残っていた。勇作さまも、そうであったらと望んでしまう。私といる事を楽しいと思って欲しいと。
お見合いの席でするには、余りにも子供っぽい話をひと時して、そろそろお父様たちをお呼びしないといけない時間になった。私はとても楽しかったけれど、勇作さまはどうだったのだろう。それが少し怖かった。
俯く私に勇作さまが息を吸うのが分かった。何を言われるのかは分からなかったけれど、顔を上げる。勇作さまは困ったように眉を寄せていた。
「なまえさん、」
「はい……」
勇作さまの視線が左右に揺れている。いつも落ち着いていて、それでいて迷いの無い方だと思っていたから、嗚呼、彼は本気で困っているのだなと思った。そうしたら、勇作さまを困らせている事が酷く申し訳なく思われた。
「私はまだ少尉職に奉じられて間もない、何をも為していない一介の軍人に過ぎません。見合いの席で舞い上がってしまって、気の利いた話の一つも出来ないような男です」
「えっと、」
「それでも、あなたに選ばれるような男でありたいと思っています」
思わず目を瞬かせてしまう。勇作さまの言葉を、理解するのにとても時間が掛かってしまう。
「それ、は……」
「なまえさんが、私を夫にと思ってくださっていたと父から聞いた時、私はどうにも感情を抑え切れなくて、父から叱られました」
勇作さまの悪戯っぽい笑みが溢れる。彼の言わんとしている事が少しずつ理解出来てきて、頬に血が上るのを感じる。
「初めて出会った時から、素敵な方だと思っていました。許されるなら、私の隣で笑っていて欲しいとも」
勇作さまが小さく息をする音が聞こえた。心臓が高鳴る。
「どうか、私の妻になっていただきたい」
熱っぽい瞳が私を見る。男の人と話していて、こんなにどきどきした事なんて無かった。口を開いて確かに返事をした筈なのに、その声はとても震えていて、どうにも様になってはいなかった。
それでも勇作さまは笑ってくださって、私はいつかこの方の妻になるのだと考えたら、生きているという事はとても幸福な事なのだと、人生で初めて強く意識した。
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