星を見上げた

あの日から、音様と顔を合わす事に罪悪感が浮かぶ。目を見つめられて、微笑み掛けられると胸が高鳴るのにうまく目が見れなくて、逸らしてしまう。とても嬉しい言葉を沢山貰うのに、どんな表情して、どんな言葉を返したら良いのか分からない。

出会った頃の方が、素直に言葉を交わせていた気がする。ぎこちない私に、音様も困ったのだろう。

「……今日は、帰る。また、逢いにくるから、今度は笑っていて欲しい」

音様は苦笑して帰っていった。その背は少し肩が落ちていて、心が痛かったけれどこれで良いのだと言い聞かせる。いつかきっと、私がいなくても音様は素敵で、真面な人を見つけるはず。心は痛い。

音様のいなくなった部屋で膝を抱えていた。一人で夜を過ごすのは、久しぶりだった。それは昔から何処か安堵する事だと思っていたのに、何故かとても寂しくて私は妙に気持ちが昂って眠れない夜を過ごした。

眠れない夜に、音様の顔が浮かんでは消えた。今何をしているんだろう、誰の事を考えているんだろうって考えた。

音様の事はこれからも変わらずに想い続ける事が出来る。目を瞑れば姿形、声すらも思い出せる。だから伴にいなくても、平気だと思った。

いつの間にか眠りに落ちていた。夢は見なかったけれど、心は変に凪いでいた。

そして珍しく、朝寝坊をした。誰も起こしに来なかったのだ。時計を見たらいつもなら見世の準備をしている時間だった。動揺してしまう。怠け者は店を追い出されてしまう。慌てて適当に身形を整えて階下に降りる。階下はいつも通りのんびりと慌しかった。

「ああ、なまえ」

振り返ると帳面を持った楼主がいた。爬虫類みたいに何を考えているのか分からない目をしていて、怒っているのか喜んでいるのか、どちらにも取れる表情をしていた。普段は娼妓にだって慇懃な態度を崩さない楼主の折檻は、執拗でとても恐ろしい。噂では折檻で死んだ妓もいるとか。朝寝坊したなんて知れたら何をされるかと思い、声が出なくて俯いていると彼が近付いて来る。

「お前、良いお客を掴んだね」

はっと顔を上げる。楼主の目は無感情だった。事実のみを伝えている顔だ。言われている事がよく理解出来なくて、怒られるかとも思ったがその意味を聞き返す。愕然とした。

私が朝寝坊出来たのは、音様のおかげだったのだ。昨夜あれだけ嫌な態度を取った私のために音様は、彼が来ない間も私が客を取らなくても良いように、かなりの額を置いて行ってくれたそうだ。

「お前は暫く、客を取らなくて良いよ。……あの旦那さまから、『なまえには客を取らすな』って、よおく言い含められているからね」

何やら帳面を見ながら楼主は言った。「そうだね、取り敢えず一月は好きな事をして過ごしな。他の馴染みにはアタシから適当に言っとくよ」それだけ言った楼主は私を通り過ぎて、背後の娼妓たちを追い立てるように声を掛ける。

私は動けないまま、立ち竦んでいた。他の妓に声を掛けられて我に返って、何を言ったのか、何を思ったのか分からないまま、ふらふらと部屋に戻った。

今まで当たり前のように客を取って生きて来たから、今更それをせずに何をして良いのか分からない。でも、音様へ感謝を伝えないといけないのは分かった。

私なんかのためにそんな事、しなくて良いのにって、思おうとしたのに。部屋に帰って襖を閉めた瞬間我慢していた涙が溢れた。あんな態度を取った私に。音様は。感情がぐちゃぐちゃになる。

ただ一つ分かっていた事は音様に会いたいという事だった。会って、お礼を言ってその大きな身体を抱き締めたかった。

本当は、音様にはきっと覚悟が無いと思っていた。商売女を迎え入れる事なんて出来ないと。恋情の不思議な万能感に、浮かれているだけなんだろうって。今までにだって、そういう人を沢山見て来たから。

でも覚悟が無いのは私の方だったのだろう。不本意でも慣れてしまった生活を、変える事を躊躇っていた。世の中の全てを見て来た顔をして、幸せになるのはどうせ無理だって決め付けていた。

音様が壊してくれた世界から、足を踏み出すのが怖かった。でも音様となら、どんな障害だって怖くない。

筆と紙を取り出す。客に手紙を出す事はたまにあった。歓心を買うような、聞こえの良い言葉を沢山使った、本心なんて何一つ書かれていない手紙を書いていた。

でもこの店に来て初めて、私は本心の手紙を書こうとしていた。文面を何度も迷って、何度も書き直す。どんな言葉も私の想いを表現するには足りなくて結局たった一言しか書けなかった。

ただ一言、「逢いたい」と。

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