「久しぶり……」
ナマエの声が、妙に掠れているような気がして尾形は頷く事しかしなかった。
樺太で別れた時からナマエが少し痩せたような気がするが、もしかすると隻眼のせいかも知れない。そう思うと尾形は何と声を掛けて良いのか分からなかった。
「アシリパを狙っていたね」
「…………おう」
「駄目だよ。私の親友だから」
咎めるような声では無かったが、何処か有無を言わせない響きがあった。樺太で最後に会った時から確実に、彼女の気持ちに変化があった事を、尾形は伺い知った。
「…………樺太で俺が言った事、覚えてるか」
「……、うん」
迎えに行く、と言った。それを覚えていた上で、ナマエは己に会いに来た。その事実が示す事を考えると、尾形は自分自身の感情を制御する事が難しくなる。
「ずっと考えていたけど、私はきっと、最後には尾形の手を取ると思う」
だからこそ、その言葉を聞いて抑えていた呼吸が僅かに深くなった。それを人は安堵と呼ぶのだと彼は知る由も無いが。そしてナマエは尾形の感情には気付かなかったのか、更に続ける。
「でもね、それは全て終わってから。私は、さいごまでアシリパについて行くって約束した」
迷いの無い言葉に刺されるような心持ちだった。暗闇の中の琥珀色の瞳が、真っ直ぐに尾形の感情を突き刺した。
「全て終わるまで、アシリパの傍にいる。でも、全て終わったら、私は何もかも捨てたって、尾形の手を取りに行く」
ずっと考えたけど、やっぱりこれしか出来ない。
裁きを待つように尾形を窺い見るナマエに、彼は静かに頷く。ナマエなら、そうするだろうという予想はしていたからだ。
「やれやれ……。俺は気の長い方じゃねぇんだがな」
「ごめんね。どうしても、アシリパとの約束は守りたいんだ」
「…………アシリパが、大切か?」
隻眼がナマエの目を射抜く。その瞳の色が深い疑義に染まっているのを見て、ナマエは微笑んだ。微笑んで、口を開く。
「少し、場所を変えても良い?」
***
尾形が仮の根城として身を置いている街外れの荒屋に腰を落ち着けた二人は、少しずつ冷えていく外気から逃れるように身を寄せ合う。
「前に言ったっけ。もしかしたら知ってるかも知れないけど、私は望まれて生まれた子じゃないんだ。お母さんが乱暴、されて出来た子、なんだ」
言葉に詰まるように息を吸ったナマエの身体を抱えて、尾形は何も言わずに頷いた。
「大人たちは、事情を知ってるから殊更『可哀想』って思われたみたい。いつもどこか腫れ物扱いだった。友達も、気のせいだと思うけど皆余所余所しいような気がして、私は世界に独りきりだと思ってた。いつも嫌われないようにびくびくしてた」
「………………」
「でもね、アシリパとはそうじゃなかったんだ。『こんな事したら、言ったら嫌われるかな』って考えなくても一緒にいられた。自然に怒って泣いて、自然に笑顔になった」
ナマエの髪を梳くように撫でた尾形の手を追うように、彼女はゆっくりと己の手を重ねる。
「だから大切なんだ。…………そして尾形も、私にとってそういう存在だよ」
琥珀色の瞳が、思ったよりも至近距離で尾形の視線を絡め取っていた。その強さに惹きつけられるように彼はナマエに口付ける。ナマエも抵抗する事無くそれを受け入れ、そこには静寂だけが落ちる。
始まりと同様静かに離れていった尾形に、ナマエは甘えるように擦り寄った。その腕の中の生き物の温もりを感じていたら、尾形は唐突に告白せねばならぬと気付いた。己の来し方について。懺悔ではなく、罪の共有として。
「俺は、自分の親と……弟を、殺した。……お前が信頼、しようとしてるのは、そういう人間だ」
弟、と声に出す時、尾形は何故か一瞬息が詰まった気がして口を閉ざした。それは彼の義弟に対する何らかの戸惑いを含むものだったのかも知れない。真相は定かではないが、尾形は彼を、勇作を「弟」と呼んで良いのか分からなくなっていたのかも知れなかった。
ナマエは困惑した顔で尾形の表情を見るのみで、彼は口を噤みそうになるのを堪えながら己の過去を打ち明けた。誰にも言うつもりもなかった事だから、話は前後して理解しづらい所もあっただろうにナマエは一言も口を挟まなかった。
そして尾形の唐突な告白が終わり再び静寂が訪れた時も、ナマエは表情を変えなかった。それはまるで明日の天気を教えて貰ったかのような顔だった。だがそれがもし、許容範囲以上の衝撃を受けた事によるいっときの虚無だったら?尾形にはそれが恐ろしかった。
尾形には確信があったからだ。彼女が己を拒絶したならば、きっと己は彼女をこの手に掛けてしまうだろう自信が。寧ろこの金塊戦争の中で彼女が誰とも知れない者の手に掛かるくらいならいっそ。そう、目を細めて尾形はナマエの返答を待った。彼女の「残り時間」を数えながら。
「…………」
「…………」
互いを沈黙が支配する。打ち破ったのは彼女の方だった。
「そっか」
「…………、それだけか?普通は善悪やら倫理について説くモンなんじゃねえのか」
虚を突かれたのは尾形の方だった。てっきり怯え慄き、自分を拒絶するものだと思っていた。本当に明日の天気の話をしていたのではないかと思わされるくらい、ナマエの反応は淡白な物だった。
「何も言えない。それが良い事なのか悪い事なのか、私には何も、言えない。言う資格なんてない。…………でも、」
ナマエの左手が尾形の背に回り、右手は頭を撫でるように添えられる。
「話してくれて、嬉しいって、そう思う」
ナマエの琥珀の瞳が星空の煌めきを閉じ込めたように綺羅綺羅とさんざめく。額合わせに彼の瞳を見つめる彼女は美しかった。尾形の視線を穏やかに受け止め、静謐な表情でただ、彼の隻眼を見返していた。
「尾形の事、教えてくれてありがとう。もっと、色んなあなたを知りたい」
密やかな声が落とされて、尾形がその小さな手を取る事に、迷いは一瞬も無かった。当然の帰結のように、彼はナマエをその腕に掻き抱いた。強く強く抱けば抱くほど、生命の温みが尾形の肌を刺して、生命を感じさせる。
「…………昔ね、悪い行いをすると悪い所へ行くって教えられたの」
腕の中で問いかけるでもなく溢れたナマエの声に対して返す言葉を、尾形は持っていなかった。彼の半生は「悪い行い」ばかりだったという自覚はあった。もう何人も屠った。顔も覚えていない。徒に殺めた者もいる。
きっとナマエは「良い所」へ行くのだろう。彼女の気高さとも呼べるような何かに、確かに尾形は救われた事があった。そして己と彼女の違いはそのまま別離に繋がるのだと察し、だからこそ彼女の言いたい事を見つける事が出来なかった。
腕の中のナマエの表情は見えない。伝えたい事は言葉にしないと伝わらないのに、その感情に輪郭を付けられない。もどかしさに目を細めた尾形を知ってか知らずか、ナマエは小さく息を吐いて笑った。
「教わった時、私は絶対に良い子でいようと思った。でも、今は尾形と一緒なら、どこだって良いと思うよ。それが良い所でも悪い所でも」
だって、尾形がいたらもうそれだけで良いから。
ぎゅう、と感情を絞られたような気がした。動揺は狙撃手にとって致命的で、それは即ち死を意味するというのに。動揺を隠すように、尾形は唇を舐める。自分が息を吸う音がやけに大きく聞こえた。
「二人仲良く地獄行きって訳か」
「……どうかな。二人で行いを折半するなら、もしかしたら違うかも」
冗談めかして笑う身体を引き寄せると、生命の音が聞こえるのを尾形は感じた。今まで刈り取って来た生命と同じであって同じでないそれを、ひたすらに抱える内に、尾形の中に確かな感情が湧いてくる。そして今度は輪郭のあるその感情を言葉にするのはとても容易かった。
「なあ、全部終わったら、一緒に暮らさねえか」
「一緒、に……?」
「ああ。二人で好きな所で、好きなように、やりたい事をやるんだよ」
「…………うん。凄く、楽しみ。約束だよ。二人で一緒に、ずっといよう」
その日々を想像したのか笑みを深めるナマエに尾形も追随する。
「行きたい所、したい事、考えとけ。何もかも終わったら、時間は腐る程あるんだからな」
「どうしよう。楽しみ過ぎて考えが止まらない。ねえ、どこに行こう?私、北海道から出た事ないや」
腕の中の塊が楽しそうに身体を揺らす。その柔らかな塊が、心底愛おしいと思った。この生命と生きていきたいと思った。
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