自由

出立は朝早くだった。音様は昼間でも良いと言ったけれど、私がこの店に来たのは夜遅くだったから、出て行くのなら朝早くが良いと思ったのだ。

皆が口々に私の幸せを願ってくれている。その目に映る羨望を、私は気付かないフリをした。でないと私は足が萎えてしまうのではないかと思ったからだ。辛い日々に、互いに励まし合った謂わば同胞を置いて、私だけ幸せになる事への罪悪感はきっと生涯忘れないだろう。

「……お世話に、なりました」

玄関で一礼したら、楼主に呼び止められた。後ろを向けと言われて従ったら、彼は私の帯の歪みを整えてくれた。

「一番綺麗な姿で旦那様の許にお行きなよ」

爬虫類のような目には、今までは知らなかった温かみを感じた。もしかしたらこの人も、本当は優しい人だったんじゃないかと、私は今更気付いた。そして何も言えないまま、私はもう一度一礼して、玄関扉を潜った。

「……なまえ、」

店を出たら、音様が立っていた。安堵したように微笑んで、私に向かって手を差し伸べてくれていた。

転ばないようにゆっくりと歩く。前締めじゃない帯はまだ慣れなくて、少しだけぎこちない歩き方になってしまうのに、音様も気付いたのだろう。大きな一歩で彼は私との距離を詰めて、私の手を優しく取った。

「転ばないように、気を付けろ。すぐそこに車を待たせてあるから、そこまでは歩けるか?」

「……はい、」

店の敷地線を跨いだ時、少しだけ足が震えた。今までだってこの線を越えた事はあったのに、どうしてか、今日はとても怖く感じた。良い事も悪い事も何もかもが一変してしまって、大きな変化に私は知らず慄いていたようだった。

これから私は、何をすれば良いのだろう。どうやって生きていけば良いのだろう。この幸せが、このままである保証は?全ての答えを求めるように怖々と音様の顔を見上げた。彼は優しく微笑んで、何もかもが分かっているという風に「なまえのしたい事をしよう。それが全て終わったら、今度は二人でしたい事をしよう」と言った。

「二人で?」

「そうだ。私はなまえとしたい事が沢山ある。沢山あるから、もしかしたら年老いても終わらないかも知れないな」

当たり前のように、ずっと先の未来の事まで言及されて目頭が熱くなる。でも今だけは泣きたくなかった。笑顔でいたかった。だって生きていて一番幸せなのだもの。

ずっとずっと、これからだって、音様の傍にいるその瞬間が生きていて一番幸せなのだもの。

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