手紙を書いたら、音様はすぐに来てくださった。あんまり早かったから、お仕事の心配をしたら「大丈夫だ」と微笑んでくださった。一先ず安堵して、それから何を言うか迷って上手く切り出せなくて、兎に角距離を詰めるために小さく手招きをした。
音様は何を疑う事もなく私ににじり寄る。膝と膝を突き合わせて向かい合い、私は遂に勇気を出して音様の胸にそっと身体を寄せた。
「…………なまえ?」
「私、怖かったのです」
思い付いた言葉を吐くけれど、きっと音様には伝わらなかっただろう。弁解するように言葉を紡ぐ。音様から与えられる幸せが嬉しいのに、それを喪うのが怖い事。音様の事を考えたら私なんかよりずっと相応しい人がいるだろう事。どうせ喪うのなら、早い方が良いと思った事。だから無意識にでも、音様を傷付けてしまった事。
何もかも洗いざらい話す。その間、音様は何一つ口を挟む事無く私の話を聞いてくれていた。全部話し終えて、裁きのような沈黙が流れる。おずおずと音様の顔色を窺う。音様は感情の混ざった複雑な表情していた。
「…………なまえは、そのように考えていたのだな」
ぽつりと溢れた声に乗せられた感情は判別出来ないくらい深い。俯くように頷くと、音様の手がゆっくりと背中に回るのを感じた。
「私は、なまえを早く私の元に置きたいと思っていた。皆が許すなら今日にだって私の許に引き取ってしまいたい」
考えながら言葉を放つ音様は、更に私を引き寄せるように腕の力を強くする。私も音様に倣うように彼の背に腕を回す。
「でも私にだってそれが許されない事は分かっている。何よりなまえを傷付けないためには、相応の手順がいるのだと理解しているつもりだ」
音様の顔が私の首筋に埋まる。吐き出される吐息が擽ったい。それでもそれを拒む気には慣れなくて、右手は音様の硬い髪をなぞった。
「そしてたとえ相応の手順を踏んだとしても、きっと私にはこれから良家の息女との縁談が来る事だってあると思う」
嗚呼、それは分かっている事だ。寧ろ無い方がおかしいのだ。首肯して、許容を示す。だが音様は私の同意が不満そうだった。
「けれどどんな女だって、なまえには敵わない。私を救い、陽の光の下に導いてくれたなまえでなければ、伴に歩く意味が無いのだ」
だから、私は身の程知らずに望むのだ。なまえにも、そうあって欲しいと。
深い黒灰色の瞳が、私を映す。呟くような願いと乞うような目が、私の顔色を窺っている。私には勿体無い言葉に何も言えないでいると、音様は項垂れるように私を抱き竦め、表情を隠す。
「楼主に、聞いた。なまえは引く手数多なのだと。……私なんかより、ずっと条件の良い身請けの話だってあると」
その話は初耳だったが、確かに資産だけで言えばかなりの太客はいない事もない。だがそれは唯の事実であって私の望みではない。
「なまえの幸せを考えるならば、私より相応しい男だっている筈だとは分かっている。だが、それでも。…………それでも私を、選んで欲しいと思ってしまう」
それを人は身勝手と言うのだろうが。
仄暗い感情の混ざった声が消え、ふーっと静かな吐息が耳許を通り過ぎる。音様の言葉の意味を反芻するけれど、上手く出来なかった。到底信じられなかった。私が音様に相応しくないと思う事はあっても音様が私に相応しくないと思っていたなんてある筈ないと思っていた。
恐る恐る、音様の頬に手を添えて視線を合わせる。額と額を合わせて彼の瞳の奥を覗き込めば、そこにあるのは苦悩だった。
「…………音様は、そんな風に思っていたのね」
それは今にも泣き出しそうな瞳に見えた。私の手に大きな手を重ねた音様は、「私は、身勝手だ」と力無く呟いた。
「音様が身勝手なら、私もそうです。…………他にどんなに相応しい人がいたって、私だけが音様の隣にいたい。だって音様といる事が、私の幸せなんです」
「なまえ、」
「音様に生かされた私が、伴に歩くのは音様でなければ意味が無いのです」
涙が零れている気がした。そのせいか、音様の親指が私の頬を伝って、それからゆっくりと引き寄せられる。静かに唇が合わせられて、触れるだけの口付けが与えられた。
「なまえが好きだ。愛している。他の誰でもない、なまえに、傍にいて欲しい」
囁くように告げられた言葉に、ぎゅう、と心が握られる。音様の身体を強く抱いた。
「私も音様が好き、大好きです。音様がいたから、私は今日まで生きて来られたの。この身は音様の物だわ。あの日から、どんな時だって」
力強い腕が私の身体を掻き抱いて、強く強く引き寄せる。この腕を一度でも疑った事を恥じた。そして以前よりもずっと、私は音様の事を愛しているのだと強く感じた。
きっともう、この気持ちが揺らぐ事は無い。そう思えた。たとえ何が起きようとも、私は音様のために生きようと思った。
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