分厚い扉をノックする。向こうからくぐもった声が聞こえる。
「ディオ、僕だよ。遊びに来た」
「……ナマエ?入れ」
重い扉を押し開けるとディオは「食事中」だったようだ。女の吸い滓が転がっているのを跨いでディオに近付く。
「ごめん、食事中だった?」
「構わない。どうした?」
ディオが手を差し伸べて、僕を引き寄せる。抵抗する事なくその寝台に身を寄せる。寄り添って寝台の天蓋を見上げた。何も見えないけれど、きっと同じ物を見ていたはずだ。
「ねえ、覚えている?」
「何をだ?」
「二人で蜂蜜入りのホットミルクを飲んだ事」
ディオが僕の方を見たから、僕もディオの方を見た。その思い出は僕らが共有するほんのちっぽけな悪戯の記憶。ディオも覚えていたようで、顔を顰めていた。
「よく覚えていたな。そんな瑣末を」
「とても大切な思い出だよ」
身体を寄せ合うと、あの頃を思い出した。互いに互いしかいなくて、互いに互いだけを信じた。僕たちはお互いがいたからこそ今日まで生きて来られた。
「ナマエ……」
「なに?」
大きな手が僕の頬に触れる。それはディオの物とは違う、ジョナサンの物だ。ディオの手はもっと骨張っていた。でもジョナサンはこんな風に僕には触れない。
「全て、忘れて仕舞えば良い。……カスのような人生だった」
「どう、かな……、大切な記憶も、あったような気がするけど。……っん、」
当然のように唇を奪われて伸し掛かられるように身体の自由を奪われる。ディオの手が意思を持って僕の身体を這いずる。それはまるで、愚かな子供を躾けるかのような動きだった。
ディオはいつも過去を捨てようとするのだ。ジョースター家に引き取られた時から、ロンドンにいた時の事を殊更に隠そうとした。僕だって引けらかす事はしなかったが、ディオの隠し方と言ったら少し異常なくらいだった。
まるで本物の貴族になろうとでもするかのように、ディオはロンドンで生きるためにしてきた事を忘れたかのように振る舞った。綺麗な上澄みのような半身の姿に、僕は笑いが堪え切れなかった。もっとも僕もジョースター家に引き取られてからは「とても品行方正」だったけれど。
大きな手が服の隙間から脇腹を撫でていく。擽ったさに身を捩ると、忍び笑いが聞こえる。楽しんでいるのだ。
「っ、……ディオ、」
「は、ナマエ、」
見つめ合ってまた、唇に触れられると思った時だ。扉の向こうから間抜けなノックの音が転がった。テレンスだ。ミルクを頼んだのを忘れていた。
「テレンス、入って」
部屋の主人に代わりに返事をすれば恭しくテレンスが姿を現した。僕たちの様子を見て、少し顔を曇らせたようだったけれど、目を伏せたままそこにいた。
「何の用だ?」
可哀想に。ディオに睨まれて縮み上がっている。ディオの下から這い出てテレンスに近付き、銀盆に乗せられたマグカップを手に取る。
「僕が頼んだ。ディオとホットミルクが飲みたくて」
マグカップは熱過ぎず冷た過ぎず丁度良い温度だった。「ありがとう」と微笑んでやれば、一礼された。目は合わなかったけれどその表情は暗い。分かりやすい奴だ。視線で彼を下がらせる。テレンスは不服そうな顔を隠して部屋から退出した。また、僕たち二人きりになる。
「あの時と同じ、蜂蜜入りだよ」
マグカップを手渡すが、ディオはそれをすぐにサイドテーブルに置いてしまった。僕はカップに口を付けた。滑らかな甘さが口に広がる。
「あの時は、蜂蜜があまりに甘かったから僕たちは顔を顰めたね」
「……ナマエ」
「たかが蜂蜜入りのホットミルク、それだけなのに。僕らはそんな物も飲み慣れてなかった」
ディオの顰め面を覚えている。僕も自分の顔が歪んだのを覚えていた。甘い物を口にする事に慣れていなさすぎて、頬が抓られたように痛んだのだ。
「ああ、覚えている。俺とお前で、誓った。こんな惨めな生活からは必ず抜け出すと」
「ジョースター家では二人でホットミルクを飲んだ事は無かったね。僕はジョナサンとココアを飲んだけど」
「……ほう?それは知らなかったな」
ディオの顔が嗜虐的に歪む。まだ、ジョナサンに対するライバル意識のような物が残っているらしい。ディオは僕とジョナサンが仲良くするのを嫌がった。ディオがジョナサンに辛く当たる分、僕はジョナサンに努めて優しく当たった。それが役割分担だと思ったからだ。でも僕がジョナサンに優しく当たれば当たる程、ディオはジョナサンに辛く当たったから逆効果だったかも知れない。
「一度だけだよ。夜眠れなくて邸を散歩していたらジョナサンと鉢合わせして、一緒にココアを飲んだんだ。ココアは僕には甘過ぎて、全部飲むのは大変だったっけ」
ココアで汚れたジョナサンの口端を指先で拭ってやったのを覚えている。あの時何を話したのか、よく思い出せない。ディオの話だったような気がするんだけど。
「初めてジョジョと会った時の奴の顔を覚えているか?」
不意に掛けられた言葉に首を振る。マグカップをサイドテーブルに置いてディオに近付き、もう一度ベッドに潜り込む。ジョナサンと初めて出会った時、僕は体調を崩して発熱していた。だからなのか僕は正直あの日の事をよく覚えていなかった。
「覚えていないや。長い事馬車に揺られて死にそうだったからね」
「そういえばナマエは熱を出していたな。……まあ、良い。あの日、ジョジョはまるでお前に見惚れていた。今でも思い出せる、笑えるくらいに」
「そうだっけ……。よく覚えていないけど、この顔は本当に『愛される』にはよく出来た顔だよ」
ジョナサンは僕に優しかった。僕の兄であるディオが彼に辛く当たったのに、だ。まるで本当の弟のように接してくれた。
「何もかも、今となっては懐かしいだけさ。でもたとえもう一度同じ事があったとしても、僕はディオの手を取って血塗られた道を歩むんだろうね」
「当然だ。俺とナマエは二人で一つ。……『母さんの胎の中で、手違いで分かたれた』、そうだろう?」
かつて、僕を止めようとした人がいた。彼は僕とディオが分かれて生まれてきた事には意味があると言った。テレンスも僕が僕としてある事に意味があると言った。だがディオはそうは言わないだろう。僕もそうは思わない。それなのに、周囲はいとも簡単に、僕らの存在に異なる意味を見出そうとする。
「僕はディオについて行くし、ディオは僕の傍にいる」
「そうだ。それだけが、真実」
指先で頬を撫でられた。ディオの赤い瞳を見つめる。その瞳の色は今も昔も変わらない。その指の温もりは、冷たくなったような気がするけれど。
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