ロンドンにいた頃に知り合った、少しだけ変わっていると思った「大人」を一人だけ覚えている。「大人」と言うには少し若かったかも知れないけれど、僕よりは歳上だから「大人」みたいな物だろう。
彼の名前は知らなかったし、歳も僕より上という事しか知らない。でもクソみたいな世界で、血を分けたディオ以外で多分初めて僕の事を気遣ってくれた。
「…………また来たの」
栄養が足りないせいか、僕はあまり身長が伸びなかった。これから伸びるのかも知れないけれど、今は同じ年頃の子供と比べたら低い方だった。反対に彼は背が高かった。背が高くて、顔に傷があって、見ず知らずの僕に何だか酷く、お節介だった。
「またやってんのかよォ」
彼は呆れながら僕の隣に立つ。舌打ちしたら、乱暴に頭を撫でられた。鬱陶しいな。商売にならないだろう。
そいつは僕がお貴族様の馬車に乗ろうとした時に邪魔してきた。それが出会いだった。僕が全て理解した上で「大人」に愛されて金を得ようとするのを邪魔したのだ。後から聞いたら僕が目を付けた貴族の身包みを剥がそうと思ったとか抜かしていたけど、まあそれは良い。
とにかくそいつは僕が身体を売る事に良い顔をしなかった。赤の他人の癖に。
「別に。……こうした方が簡単に稼げるからさ」
「だからってよォ……、」
「……酒代が無いと、父さんは兄さんや僕を殴るからね。僕が殴られるのはどうでも良いけど、兄さんが殴られるのは見たくないよ」
雪が降っていて、でも上着は薄くて巻いていたマフラーに顔を埋める。あの男が酒で身を持ち崩すのなんて最早どうでも良い。心配なのは双子の兄の事だけだった。ディオがいなくなる事の方が恐ろしかった。たった一人の本当の意味で血を分けた半身なのだから。
「兄貴がいんのか?」
「いるよ。本当は一つで生まれてくるはずだったけど、間違えて二人で生まれて来てしまったんだ」
「双子かよ?」
彼は全く無邪気に僕の顔を覗き込む。何だか犬を思い出してしまう。ディオは犬が嫌いなんだよな。僕は……どうでも良いけど。
「そうだね。……あんまり似てないけどね」
雪が少しずつ肩に降り積もるのを払う。今日は稼げないかも知れない。天気が悪いからそもそも貴族の馬車が通らない。
「…………帰らなくて良いの」
少しずつ翳っていく日に、隣の男の顔を盗み見た。彼と初めて出会った時の事を思い出していた。初めて会った時、こいつは僕の客である「大人」をめった打ちにして、本当に心からの笑顔で笑いやがったのだ。「もう、大丈夫だ」と言われて、その笑顔を見たら、何だか僕がしている事がとても馬鹿らしく思えてしまって、僕は彼に導かれるがまま、彼の根城で一晩を過ごしてしまった。それが僕が彼を遠ざけないただ一つの理由だった。
「オメェこそ帰んなくていいのかよう」
「僕は良いんだよ。金が無いと帰っても殴られるだけだからさ」
「……なあ、やっぱりよォ」
「……行かない」
男が何を言いたいのかは分かっていた。彼はもうずっと、僕が家を出て彼の根城に来るように誘ってくれていた。それはきっと彼からしてみれば善意の申し出のはずだろう。でも僕は行けなかった。誰も信じるのが嫌だった。怖いのではない、嫌なのだ。信じるに足るのは、僕にとってはディオだけだった。
「兄貴も一緒に来いよ。俺らの仲間になれば、少なくとも殴られる事はねェ」
「…………さあ、どうだろうね」
吹く風が冷たくてふるり、と身体が揺れた。男は僕のそんな様子に気付いたのか上着を脱いで渡して来た。
「いいよ。あんたも寒いでしょ」
「着とけよ。ガキが身体冷やすもんじゃあねェ」
「別に、客さえ取れればあったかくてふかふかのベッドで寝れるから良いのに……」
サイズの合わない上着を羽織る。それはまだ温もりが残っていて暖かかった。素直に礼を言うのは癪に触ったので、口の中で「ありがと、」と呟いた。男に聞こえているかは分からなかったけれど、また乱暴に頭を撫でられた。
「オメェ、俺んとこ来いよ」
「……だから、」
「今日だけだよ。どうせこの雪じゃあ、もう誰も通らねえ。寒い中ずっと立ってたら風邪引いちまうだろ」
彼の事は何も知らなかったけれど、でも彼だって良い暮らしをしていないのは分かっていた。僕みたいな子供に慈悲を掛けられる程、余裕なんてないはずだ。良い顔をして近付く人間は疑わなければならない。それは生まれた時からの常識だった。それなのに、僕の嗅覚はどうしてか、この男には反応しないのだ。反応して欲しくないと願っているだけだろうか。
「……あんた、凄くお節介だね。誰にでもそうしてるの?」
「まさか!俺ァ、お節介焼きだが、良い奴と悪い奴の区別はニオイで分かる」
「…………じゃあ、きっと『僕ら』はとても悪い奴だ」
言葉が溢れたのは、寒いからだと思った。貸してもらった上着が暖かくて、僕の口を緩ませたからだ。
「何でもして来たよ。生きるためなら、殴られずに済むなら、奪われないためなら手段は選ばなかった。今だって、僕らは『とても恐ろしい事』をしている。でも、それを悪いとは思わない。後悔だってしない」
誰かに自分の事を話すのは初めてだった。どうせ彼が僕の事を何も知らない他人という事実は純粋に僕の口を緩ませた。
「僕らは決して、天国には行けない。でも、それで良いと思っている。二人で地獄に行くなら、一人で天国に行くよりずっとマシだ」
雪混じりの風が強く吹いて、今日はもう、商売は無理だなと思った。僕は小柄だから恐喝は成功率が低かった。今日は稼ぎ無しだと思うと帰るのは少し憂鬱だった。
「帰るよ。今日はもう、仕事にならないから。上着ありがとう」
目に刺さるように風が吹いて涙が滲む。目を瞬かせていたら男は僕が泣いていると勘違いしたのか乾燥した親指が加減なく僕の眦を拭った。
「いたいよ」
「オメェやっぱり俺んトコ来いよ」
「……でも、」
「今日だけだって。全部忘れて、それで寝ちまえよ。一等良い寝床を貸してやるからよ。それに少なくとも俺の仲間はオメェの事は殴らねェ」
目の前の彼は上着が無くて寒そうだった。そりゃそうだ、上着は僕が取ってしまったから。唇が紫色になって、寒そうだ。
「…………お節介焼き。何か目的がある訳?」
「ねェよ。…………まあ、強いて言うならオメェからは別に、『悪』のニオイは感じねェしな」
「……僕はあんたが悪いクソ餓鬼に騙されないか心配だよ」
俯いたのは吹雪が強くなって目が痛かったからだった。他の意味は無かった。目の前の彼が僕に手を差し出した。傷のある大きな手だった。ディオの手とは違う。ディオの手はもう一回り小さくて、まだ子供だから柔らかい。父の手とも違うと思った。僕らを殴るだけの手とは違う。勿論母の手とも。そしてその手を取ったら、僕の世界に注意を配分しなければならない人間が増えてしまうような気がして嫌だった。僕の世界には最初からディオと両親しかいなかった。
「オイ、寒ぃからさっさと行くぜ」
「え、あ……」
躊躇いは簡単に攫われて、僕は彼に手を取られていた。僕を先導する背中に小さく声を掛けた。
「あんたの名前は?」
聞こえていないかな、と思ったのに、彼は振り向いて出会った時のような太陽みたいな顔で笑った。目が潰れそうだった。
「俺ァ、お節介焼きのスピードワゴンだよ。オメェの名前は?」
コメント